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  • 書くことのプラクティス:第1回「クィアに書くことのプラクティス」レポート

    2024年1月7日、静岡県沼津市でワークショップ「書くことのプラクティス」の第1回「クィアに書くことのプラクティス」を開催しました。このレポートでは、ワークショップ当日の様子を写真とともに紹介します。
    (文:石川祥伍、写真:小野)

    木造の家の部屋で、テーブルの周りに輪になって5人が座っている。奥の4人は手前の1人の話を聞いている。
    ワークショップ当日の様子

    「書くことのプラクティス」とは

    第1回の「クィアに書くことのプラクティス」、第2回「自分じゃない言語で書くことのプラクティス」、そして第3回の「他者とともに書くことのプラクティス」で構成される全3回のワークショップです。普段わたしたちはひとりで書きますが、このワークショップでは他の人たちと一緒に書くことを練習=実践(プラクティス)することで逆照射される「ひとりで書くこと」の可能性を探ります。今回開催した「クィアに書くことのプラクティス」では、2つのプラクティスを通じて自分のジェンダーやセクシュアリティについて書くこと、書くことの快楽を探求しました。

    グラウンドルールの設定

    プラクティスの空間をかたちづくるのは、そこにいる人たちです。参加者が持ち寄る感性や知識、興味や疑問は、このワークショップを企画したわたしたちでさえ考えていなかったことを考えさせてくれます。しかし、知的な刺激が溢れうる場が参加者の安全を脅かすものであってはなりません。とくにジェンダーやセクシュアリティを取り上げるこのワークショップでは、クィアな個人の物理的・心理的安全が確保されていることは他のなによりも優先されるべきです。参加者が心地よく参加できるよう、ワークショップの冒頭、以下のグラウンドルールを確認しました。

    グラウンドルール
    このワークショップでは、ジェンダーやセクシュアリティについて話したり書いたりします。すべての参加者が居心地よく参加できるように、以下のグラウンドルールを念頭に置いて参加してください。

    1. ジェンダー、セクシュアリティ、障害の有無、見た目、人種、宗教、出身、階級に基づく差別的言動や行動を禁じます。参加者の安全を脅かすと判断される場合は、退出していただきます。
    2. この場で聞いたことは持ち帰らず、この場で学んだことを持ち帰りましょう。
    3. 自分の立場やアイデンティティによってつくられる権力関係をわきまえて発言しましょう。

    このグラウンドルールは多くの人(とくにこのようなワークショップに興味を持ってくれる人)にとっては当たり前だと感じられるかもしれません。ですが、これらのルールを参加者全員で一つずつ確認していくことで、全員が他の参加者にたえず影響を与えていることを意識しながらプラクティスや対話に参加することができると考えます。

    プラクティス1:言語をずらしていく

    「言語をずらしていく」と題した1つ目のプラクティスは、書いたものを他人に見せるという前提で自分のジェンダーやセクシュアリティについて書くというものです。ここではジェンダーやセクシュアリティという私的でセンシティブな事柄を他者にたいして言語で説明することの難しさを解体することを試みました。

    参加者のみなさんには、まず10分間、自分のジェンダーとセクシュアリティについて自由に書いてもらいました。そのとき、書き終わったら隣の人に見せることを伝えました。この時点で参加者は自分の書いたものが他人に読まれることを念頭においたうえで自分の私的な事柄について書くことになります。そのとき、わたしたちは自由に書くことができるのでしょうか。

    クィアな人たちは自身のジェンダーやセクシュアリティにLGBTQといったラベルを貼って説明することがあります。このようなラベルはときに相手の理解を得るために便宜的で、とくに同じラベルをもった他者と共感したり連帯したりするためには有用です。しかし、それだけでは自分のジェンダーやセクシュアリティを的確に表現できないという感覚、さらにはラベルによって自分が縛られるという感覚さえ覚えるときがあります。なぜなら、ジェンダーやセクシュアリティは特定のラベルには収まりきらない差異があり、それらは常に変化しうるからです。ジェンダーやセクシュアリティを書くことはそれらの流動性を固定化することでもあるのです。

    また、わたしたちは書くとき、どんな文章にも読み手という存在がいる限り「読み手に伝わる文章を書かないといけない」という規範を内面化しています。だからこそ、わたしたちは読み手に自分が伝えたいことがきちんと伝わるように言葉を選んで書きます。どれだけ言葉選びに慎重であったとしても、読み手に誤解されることはいくらでもあります。とくにジェンダーやセクシュアリティについて書くとき、書くこと自体が難しいことであるのに加え、読み手の存在を意識しないといけない意味で、書くことはさらに困難を極めます。

    わたしたちは言語と読み手がつくりだす規範からどのように逃れることができるのでしょうか。誤解の可能性を常に恐れないといけないクィアな人たちはどうやったら自分のクィアネスを書くことができるのでしょうか。

    参加者はみずからのジェンダーやセクシュアリティについて書くなかで、同じ文末を繰り返し用いることで停止しない思考を切断しようとしたり、紙に書いてある罫線にとらわれず空白をつくることで言い切ることから逃れたり、読み手と読み手によって生じる規範から逃れようとしていました。それは「読み手に理解されない」という読み手に寄り添った方法ではなく、「読み手の理解を拒否する」という書き手の能動的な実践だといえます。

    「クィア」という言葉は、規範から逸脱することを意味します。ただ大事なのは、クィアはただ規範から外れているのではなく、常に規範から外れつづけているということです。だから、<クィアに書く>ことは自分のクィアネスによって書かれ、書くことで自分がクィアになってくという経験です。書くことを通じて、書き手である自分が変化していくと同時に、それを読む他者が変化することでもあります。

    イリガライの「エクリチュール・フェミニン」

    書くことを通じてさまざまな規範から逃れようとする試みは、哲学者のリュス・イリガライの「エクリチュール・フェミニン」というプロジェクトに基づいています。「女ことば」と直訳されるこの概念で、イリガライは書くことで男性的な言語という規範を揺るがそうとします。

    イリガライのこの取り組みにおいて重要となるのが、ジャック・デリダという哲学者の「差延」という概念です。差延とはある物事の根拠や起源を無限遡行的に求める運動のことで、「差異化の運動」と言い換えることもできます。「なんのために生きているのか?」という問いに対して、「人を幸せにするため」と答えるとします。すると、「なんのために人を幸せにしたいのか?」という新たな問いが生まれるように、無限にその理由の根拠を問いつづけることができます。

    イリガライはこの差延の運動をジェンダーの規範に適用しました。「どうして言語は男性に支配されてきたのか?」という問いに根拠が永遠に見出せないことを、「女性的に書く」ことによって暴こうとしたのです。言い換えれば、女性的な言語を導入することでジェンダー規範をずらしていくという試みなのです。

    表紙にオレンジ色の文字で「哲学の余白・上」と書かれた本を両手で開いている。
    「差延」が収録されているジャック・デリダ『哲学の余白・上』

    プラクティス2:いろんなしかたで書いてみる

    言語をずらしていく実践の後、わたしたちは2つ目のプラクティス「いろんなしかたで書いてみる」に移りました。ここでは、わたし(石川)が自宅から持ってきた多種多様なものを使って、書くことを触覚的に楽しむことを実践しました。テーブルの上にはさまざまな種類の紙や筆記用具が無造作に置いてあります。なかには黒塗りされたわたし自身の住民票の写し、冠婚葬祭に用いる封筒、チラシ、テープがありました。用意された大量の素材を用いて、わたしたちは<ペン先と紙のあいだで書く>という固定化された書くという行為を拡張しようとしました。

    このプラクティスの背景には、イリガライがクィアな快楽を触覚に見出していることがあります。イリガライは『ひとつではない女の性』で、男性は他のもの(女性器や自分の手)に頼りながら視覚的に快楽をつくりだす一方、女性はみずから触覚的に快楽をつくりだすことができる、と書いています。イリガライはここでの「女性」を、いわゆる実存としての女性ではなく、多元的な欲望の矢印を出すことで男性的な快楽産出の規範を逸脱するクィアな主体として描きます。そういう意味で、エクリチュール・フェミニン(「女性的に書く」)とは、書くことでみずからが触覚的に快楽を産出することです。

    このとき、わたしたちは書くときの触覚をペン先と紙のあいだにしか感じないことは、男性的で異性愛的な感覚であるということができるのではないでしょうか(ペンで紙に書くことは異性愛モノガミー規範において正常化されているPIVセックスを想起させます)。このプラクティスではペン先と紙のあいだ以外のさまざまな場所で、さまざまなしかたで快楽を生み出すことを探ることで、クィアに書くことを実践しました。

    参加者は最初は何をすればいいか戸惑っていたものの、次第にそれぞれのしかたで触覚的な快楽を生み出す方法を探っていました。結婚式のご祝儀袋にカラフルな線で絵を描く参加者もいれば、住民票の写しを新聞紙に切り貼りしてコラージュをつくる参加者、反対にレジュメの紙に鉛筆で大きな渦を描く参加者もいました。参加者が書いたものに他の参加者が書き加えることもあり、プラクティスの空間には複数の欲望の矢印が同時に交差していました。

    現代短歌新聞の一面、そのうえに細長い黄色い紙がある。左奥には淡い緑色の布、右手前には赤いマーカーで「欲望の矢印」と書かれた紙。
    プラクティス2で参加者が書いた・つくったものの一部

    居心地のよい場をひらく

    今回のワークショップを開催するにあたって、居心地のよい空間をつくることを意識しました。今回使ったシンマチという会場は駅から徒歩で15分と少し遠いところに位置していますが、居心地のよさを重視して選びました。机や椅子だけでなく、広いキッチンやトイレがあり、ゆったりとした時間を過ごすことができました。ただ段差が多く狭い空間であるので、アクセシビリティに欠けていました。今後のワークショップでは、より多くの人にとってアクセシブルな会場で実施します。

    キッチンを正面から撮った写真。右手背景にはフライパンや鍋が引っ掛けられていて、カウンターには酒の瓶や調味料が並んでいる。手前にはコーヒーを淹れるための器具、ポット、たくさんのグラスが机に置いてある。
    会場・シンマチのキッチン

    今回企画にかかわっていただいた社会実験室・踊り場の小野さんには宣伝用のポスターのデザインを担当していただきました。小野さんのおかげで今回のワークショップが実施できたといっても過言ではありません。また、小野さんにはワークショップ当日、美味しいコーヒーを淹れていただきました。わたしは雅心苑という和菓子屋さんの、中にあんこが入ったみたらし団子を差し入れました。ワークショップをおこなう物理的な空間、飲み物・食べ物、また小野さんが持ってきてくれた石や「めんめ」たちの存在すべてが、参加者に居心地のよい空間をひらいていました。

    わたしの出身地である静岡県沼津市でこのワークショップを実施することは、わたしにとって重要な意味をもちました。沼津やその近辺に住んでいない人にとってこのワークショップに参加することは、その人の一日(と交通費とエネルギー)をこのワークショップに費やしてもらうということに他ならないです。それはその人の身体を変化させることでもあります。なによりも遠くからわざわざ参加してくれること自体、その人がこのワークショップに強い関心があり、テーマについて深く考えてくれることの証左だと思います。それはすべての参加者が学びを得ることができる場をつくるのに非常に大切なことです。参加者のみなさん、遠くからお越しいただき、ほんとうにありがとうございました!

    今後について

    次回は第2回「自分じゃない言語で書くことのプラクティス」を開催予定です。実施日時や場所などの詳細は未定ですが、虫や鳥たちの鳴き声が聞こえてくる季節に開催したいと思っています。次回は<自分じゃない言語>、自分のものではない言語を用いて書くことを実践しようと考えています。念頭にあるのは、植民者によって言語を奪われた被植民者が、植民者の言語で文学を書く試みであるポストコロニアル文学です。ポストコロニアル文学・理論を通じて、書くという行為を脱植民地化すると同時に、書くことで脱植民地化するということを、みなさんとともに考えていきたいです。

    5人がヒーターの周りを輪になって座っている。左の2人は一段高くなっているところに座っている。奥には大きな本棚がある。
    ワークショップ終了後、近くの本屋で談笑する参加者のみなさん


    「プラクティス1:言語をずらしていく」でルーズリーフに書いていたこと
    小野(社会実験室・踊り場)

    自分にとってジェンダーやセクシャリティというのは「保留したいもの」でしかありません・
    考えていても ずれていく
     目のなかにうつる浮遊物のような
    みると、どっかいく 直視できない
    人に話す時も 理解しあえないので、はなしません
    自分が自分であるために必要なのか 不要なのか
    わからない
    まちがっているのは
    言語化や説明を迫ってくる 存在するためには証明を要する この社会の方だ!!
    という怒りを ずっと持っている
     逃れて保留しているあいだだけ
    規範からずれていられるあいだだけ 自分でいられる

    学校では
    正しいことしか教わらないので、
    結局いろいろなことはインターネットで知りました
    自分が人や規範と あたりまえとされるものとは違うなんてこと
    教えてもらわなくてもずっと知っていたので
    経験と感情がそこに ここにあるので 教えてもらわなくても
    学校で習わなくても ずっとここにいた ということだけわかる

    罫線の書かれた白いルーズリーフに書かれた文字と絵。
    罫線の書かれた白いルーズリーフに書かれた文章。