2024.1

  • 2024.1.31

    10時。もう誕生月も終わり。時間が過ぎるのは早い。カレンダーはもう2月だ。こうやって人は死んでいくのかもしれない。

    12時。シアターコモンズの『弱法師』のチケットを無事買うことができた。意外と争奪戦でもなかった。

    明日はお弁当を作って山に登りたいけど、いまは雨が降っていて、たぶん明日の朝、山を登るにはすこし危険かもしれない。でも、明日の最高気温は17度らしい。もう春はすぐそばだと言いたいが、そう簡単に春にはならないだろう。

    13時。夜に仕事があるのはストレスフルだけど、午後は時間があるから、書くプラの執筆を進める。いつか本にしたいと思っている。Sさんもついに論文を書くらしい。書くことは孤独だけど、すごく楽しい。

    17時。塾の生徒が、学校でディズニーについてのプレゼンをするらしく、ぼくにもプレゼンしてくれたら、知らないカタカナ語が多すぎてびっくりした。覚えているのは「ミラコスタ」、「ミステリアスアイランド」、「アメリカンウォーターフロント」、「スパイシーなんとかチキン」、「なんとかファンタスティックライド」。でも、それを聞いてなんだかディズニーに行きたくなった。ディズニーに対するメタな興味が出てきた。これを読んでいる人でディズニー好きな人は、ぼくが興味をもっているうちに誘ってほしいものだ。

    23時。『作りたい女と食べたい女』を夜にみるとお腹が空いてくる。単純に食べ物のチョイスが良いし、春日さんが食べている姿をみているとほんわかする。

    24時。まえ応募したものの一次審査を通過したメールがさっききた。二次審査は東京で、だ。日時調整のためにフォームを埋めなければならない。

    2024.1.31
  • 2024.1.30

    今日も遅く起きて、お風呂に入ってさっぱりさせる。ドトールに行って、スピヴァクの『サバルタン』を読み終え、『ポストコロニアル理性批判』を読もうとするが、その難解さと量に圧倒され、はじめに、だけ読んで、興味がありそうな部分に付箋を貼っておく。たぶん『サバルタン』で一番おもしろいのは言語/法の多様な意味作用(satとsatiのちがいなど)によってイギリス人が法を解釈してしまうことにあると思う。その手つきはさすがスピヴァクのポスト構造主義性を感じさせる。

    本屋に寄り、現代思想のパレスチナ特集、100分de名著のローティ本、そして石岡丈昇の『タイミングの社会学』を買う。石岡の本はずっと目についてはいたものの、あらためてパラパラとページをめくっていたら、最初2ページで「他者を書く行為」、「書くという行為」というワードが自分のいまの興味と響き合い、すべてはタイミングだと思いながら、いつのまにか手に取っていた。手に取りやすい価格というわけでもなかったが、ここで買わなければいつ買うかわからないものはいま買ったほうがいいという信念がわたしを突き動かした。

    仕事場に行くまえにクロワッサンのサンドイッチを購入し、仕事場で食べる。お腹が空いていた。生徒にはドタキャンされ、イライラしながら帰路に着く。少し寝てから、軽い夕食をつくり、オンライン授業に挑む。

    岸田國士戯曲賞の作品がノミネートされた。すでに観た/呼んだ作品が何本かあった。まだ読んでいないほかの戯曲も読んでみたい。

    2024.1.30
  • 2024.1.29

    疲れていて、起きては寝て、起きては寝てを繰り返す。結局、その反復が終わったのは14時くらいで、そろそろ起きて何かをしなければと思い、コーヒーを淹れる。いつもはコーヒー味のお湯になるけど、今日は酸味が感じられるおいしいコーヒーを淹れられた。なんだかなあ、という感じ。

    溜まっていたメール等を返し、仕事の準備をしたりしなかったり、むかし仲のよかった人や好きだった人との会話をみたりする。4年前に話していた同じことをいま考えていたり、自分の言葉の拙さに失望したり、もっとうまく言えたのに、と後悔したりする。毎日のようにラインしていた人ともある日を境にまったく連絡しなくなるとはどういうことなのだろうと考える。それは単純にその人のことを嫌いになったとか、その日を境に何かが劇的に変化したとか、そういうことではなく、自分とその人との微妙な差異が会話の区切りになってしまった、という感じなのかもしれない。途切れた会話を今になって再開することはあまり考えたことはないけれど、してみるのも面白い—-という言葉が合っているのかはわからないけど—-のかもしれない。ただそれを始めるのはいつも自分自身だ。それだけ自分は自分のことしか考えていない。

    SNSだと一番上から、最近会話した人が並んでいくけど、それはあくまでもSNS的な人間関係の捉え方で、その捉え方を内在化しちゃっているせいで、連絡しない時間が物理的な距離として反映されたり、人間関係が上書きされたりするというSNS的現実に染まっている自分がいる。だから、メールとか手紙とか、関係を上書きしないまま人とかかわれる媒体に憧れ、それだけで繋がっているプレカリアスな関係性に特別な魅力を感じる。いまそうやって繋がっている人たちが自分の周りにはそういない。繋がることの簡単さは切断することの簡単さでもある。

    明日の体験授業で教える数学の内容が難しく、ちゃんと指導できるか心配だ。

    2024.1.29
  • 2024.1.28

    寺田倉庫でTERRADA ART AWARDファイナリスト展。寺田倉庫は高級マンションのような雰囲気がする。というより天王洲一帯そんな感じがする。広島弁とピジン英語を同時に、しかもそれを存在しない日系ハワイ人に発話させるという原田裕規の作品がよかった。やんツーさんの作品は最初から観れないとわかっていたので、もはやかかっているブルーシートが作品だと感じた。唯一見れたインストラクションペーパーがコンサルの資料とWikipediaの記事を合わせたようなものだった。アンケートの感想欄に「もっと”新進”アーティストを取り上げてほしいです」と書いた。

    藝大の卒展。上野は人が多い。卒展も同様だった。初日でしかも会期中唯一の週末ということで人でごった返していた。東京芸術祭で知り合ったアーティストのTさんの展示に向かうが、間違えて別会場の都美術館に行ってしまう。間違えに気づき、藝大に向かう。正門前ではカタツムリの殻をかぶるというパフォーマンスの周りを人が囲っていて、ほとんど何をやっているのかわからなかった。

    Tさんと会うことができ、少し話す。あまり顔に疲れは見えなかったけど、朝までずっと作業していたという。Tさんの作品はハムレットの舞台を建築に置き換えるものだった。戯曲のそれぞれの「モーメント」で登場人物がどのような動きをするのかをタイムラインに落とし込み、それを踏まえた建築をデザインする。戯曲中の音響なども反映された労作だった。他の作品も見たが、とにかく作業量が半端じゃない。そして、ジョルジュ・ブラックの絵画を建築に落とし込んだり、ホッキョクグマの生態をいろんな建築に適用したり、アイデアが練り込まれていて、それが見事に建築のディテールと合致していたのがすごいと思った。

    総合工房館や陳列館を一通り見たあと、Tさんに薦められた彫刻棟に行くことにした。ぼくの好きな木の彫刻から音のインスタレーションまで多彩な作品が並ぶ。「彫刻」の枠にはまらない作品の多様さはヨーゼフ・ボイスが「社会彫刻」と彼の作品を呼んだことと似ているのかもしれない。

    曳舟にあるギャラリーでやっている槙さんの個展へ。来週やる作品のリハーサルというか、「実験」というか、それを見にいく。2階の狭い部屋にたくさんの小道具大道具が用意され、「肉」と呼ばれる肉体たちがそれらの道具と接合される。たとえば、槙さん肉には「庭師」によって頭に掃除機が接合されたり。まあとにかく変なことをしている。でも、こういうことをしているアーティストも少ない。TERRADA ART AWARDの講評でもある評者が「最近のアーティストは行儀が良い」という趣旨のことを書いていて、それはそうだと思う一方、槙さんみたいなことをしている人もたくさんいる。そういう人たちが浮上してこないだけなのかもしれない。そんなことを思ったり思わなかったり。実験のあとにはフィードバックタイムもあって、当然だけど参加しているみんなが作品に情熱を捧げているんだなと実感する。

    2024.1.28
  • 2024.1.27

    カフェで読書していると、立岩先生を偲ぶ会がやっていることを忘れていて、急いで配信を見ようとするともう終わっていた。アーカイブを早送りしながら見ていると、息子の想さんが父として、祖父として(「しんやじいじ」)の立岩先生について話していて、思わず笑ってしまうようなエピソードを紹介していた。「居酒屋にはですね、自分は0歳のころから連れて行かれてまして、行くたびフライドポテトを頼んで、父に馬鹿にされていたのを覚えています。」みんなが立岩先生の「代わりに」話そうとしていたが、もちろん誰もそれをすることはできなかった。スピヴァクとの重なり合い。

    あとで知ったのだけど、この会を準備するにあたって、いろいろ不手際や負担の偏りが発生していたらしく、いろいろと考えてしまう。

    夕食はブリの刺身が食べたいと思って、スーパーに行ったら、ブリの刺身はその横にあったカンパチの刺身より100円高かったので、カンパチの刺身を選んだ。出世魚とはこういうことかと頷いてしまった。ポテトサラダとニラ団子も買った。

    友人たちと今後やっていくことについて話す。話すといろいろ事が進むと思える。こうやって自分のやりたいことにサポーティブな人たちがいることにあらためてありがたいと思うばかりだ。それをきちんと伝える。伝わったかはわからないけど。

    2024.1.27
  • 2024.1.26

    『PERFECT DAYS』。正直、(いまの自分にとって)完璧な作品だった。反復する生のなかにも少しだが差異があって、それを大事にするというある種凡庸なメッセージを美しく描写するとこうなるんだな、と感心する。しかし、エンドロール後の「木漏れ日」の説明で—というよりこの映画全体でコッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』をみたときに感じた—オリエンタリズムを強く感じ取った。それはどんな西洋の映画監督が日本を撮るとこうなるというものではなく、どちらかというと西洋にはない日本の美みたいなものを映し出そうとするとこうなるのだなと思う。コッポラであれば日本のアングラ文化だし、ヴェンダースであればトイレの清潔さ、清貧の思想、カセット文化(レコードではなく!)だろう。もちろんコッポラは日本に白人の俳優を置くので、そういう意味では根本的に異なる性質をもつ映画だけど。あと、役所広司がかっこよかった。

    塾の先生(といってもぼくが教わっているわけではない)がゆずとシークワーサーをくれた。全部、家の木から採ったものらしく、ゆずで作ったジャムもくれた。せっかくだから、お風呂にゆずを入れて、帰りにハイボールを買って、そこにもゆずを絞った。爽やかな香りと独特の苦味がおいしかった。反復する生に少しの差異を付け加えること。それが大事だと思う自分もいれば、反発する自分もいる。

    2024.1.26
  • 2024.1.25

    せっかく何もない一日だから行ったことのないカフェに行こうということで、少し自転車を走らせてロースターに向かう。グーグルマップをみてみると店内にはテーブルがあるから本も読めそうだ。中に入ると、店主が「豆を買われますか?」と聞いてきたので、「いや、店内で」と返したら、そういう客は珍しいと言われた。ロースターはカフェとはちがい、おもに豆を販売するところらしく、でも一応店内でも飲めるように少し席が用意してある、という感じらしい。入る店を間違えてしまったか、と思ったけど、とりあえず席に座ってスペシャルティーコーヒーをみる。それぞれの豆の瓶には産地や高度、どんな味がしているのかという説明が書いてあり、あまりコーヒーには詳しくないぼくからしたら、どれも似たような説明だったので、目についたエルサルバドルのコーヒーを注文した。

    店主が何をしている人なのか聞いてきたので、「一応ライターをしています」と答えたが、その答えはいまだに自分のなかで収まりが悪い。すると、話は美術の話になり、店主もアーティストの友人がたくさんいるんですよ、と話して、どうしてカフェの店主は友人のことを話したがるのだろうか気になったりする。でも、とくに不快なわけでもないので、話を聞いていると、政治の話になった。いまの政府はダメですよね、とか話していると、店主が「生活保護は絶対に必要だと思うけど、ドキュメンタリーでみた仕事に就けずに生活保護をもらっている元暴力団の人が、カメラが三つついてるiPhoneを持っていると不条理だなと思います」という趣旨の話をしていて、それには「うん?」となった。なんとかそれに対して反論しない形で反論したかったので、フリーライダー論批判を頭の中で考えるのだが、こういうときにかぎって出てこない。いろいろもやもやしたので、とりあえず能力至上主義批判めいたことを言った。よかったのは、店主がぼくの話も真剣に聞いてくれて、「たしかにそうですよね」と言ってくれたことだ。そのあと、沼津のまちづくりの話になったりして、腕時計をみたら1時間以上は話していた。無料でコーヒーのおかわりもくれたし、「友人とは普段こういう政治の話をしないので、嬉しかった」と言ってくれたりして、嬉しかった。

    帰りに久々に千本浜の海沿いを自転車で走る。夕暮れで景色は美しかった。富士山もここ数日の寒さで白くなっていて安心した。月も満月か満月に近く、低く大きく出ていた。自転車だと数キロを簡単に走れてしまうので、数十分走ると隣町まで行けちゃう。なんだか身軽に感じながら、波の音を聞きながら。これが何万人を殺すんだから、とも思いながら。

    2024.1.25
  • 2024.1.24

    吉岡本の関心のある部分をあらかた読み終える。吉岡の主張である「多配列思考」に個人的には乗らないものの、彼が批判する(そして批判されてしかるべき)ポストコロニアル人類学の三つのアプローチは興味深いと思う。とくに二番目の「サバルタンになる」方法は人類学的にはありえないと退けられると私でもわかるほど突飛な主張なのだけど、それについて考えている人類学者がいると思うと、なんだか胸熱だ。もちろん分析者である人類学者が研究対象と同一化することは不可能だ。しかし、「なる」という概念をそのまま受け取るのではなく、ドゥルーズ=ガタリ的に受け取ればよいのではないか、と思ったりする。

    次にスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』のフーコー・ドゥルーズ批判を読もうとするが、文字がまったく頭に入ってこない。大学の授業で英語で読んだときはけっこう理解できた気がするのに、あらためて日本語訳で読んでみると、太字になっている「主体」という言葉がどうやらこうやら書いてあって、ほとんど理解できなかった。明日、あらためて読んでみることにする。

    ちょうど家にセルトーの『日常的実践のポイエティーク』とドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』が届いていたので、パラパラとめくってみる。やはりいろいろ面白そうなことが書いてある。とくに代理=表象としての書く、が書いてあるところを中心に読んでいきたい。こうやっていろいろな本を読みながら、触発され、頭の中で書くプラの構想を練っていく。

    毎日、仕事を5、6時間やっていて、それが地味に体に来ているのだが、確実にお金は稼いでいて、労働って怖いなと思うのである。明日も朝から授業がある。

    ZAZEN BOYSの新譜、めっちゃグルーヴが効いていて、前のライブで聴いた2つの新曲も洗練されていて、思わずカフェでリズムをとっていた。

    2024.1.24
  • 2024.1.23

    カフェで作業。ジェイムソンを読み終え、Workflowyにまとめる。読書会は来週に延期になったけど、早めに読むことに越したことはない。前日にまた復習すればよい。そして、件の難しい文章を書いているとパソコンの充電が切れてしまい、充電器を持ってこなかったので、仕方なく本を読むことにする。次の書くプラにむけて、吉岡政德の『反ポストコロニアル人類学』の第2章を読む。オリエンタリズム批判に対する批判を提示するしかたが人類学っぽくて新鮮だった(もちろん人類学の本なので、「人類学っぽい」のだが)。非常に学問的な内容で、もちろん人類学だから具体的な例もポンポン出してくるので、込み入った議論もあったけど、論点はクリアで読みやすかった。ポストコロニアリズム入門としても読みやすい。

    先日のドラマトゥルク新年会で会った人に、『ジェンダー・トラブル』の読書会に誘われたので、参加することにした。

    2024.1.23
  • 2024.1.22

    ここ数日、書き続けている文章があって、でもなかなか書き終えることができず、書き終えることの難しさが内容にかかわるのか、それともたんに頭が働かないかはわからない。ただ、難しい文章を書いているとは思う。

    読書会のためにジェイムソンを読んでいたときに、英語では「writing」、フランス語では「écriture」と、書いたものに名前がついているのだけど、日本語にはそれに相応する言葉が存在しないことに気づいた。前々から、「エクリチュール」という訳語のことは知っていたのだが、改めて書いたものが「書く」という動詞の派生形で表せないことのもどかしさが日本語にある。「書いたもの」ともあまり言わないし、「文章」だと「書く」ことが入っていない。

    つまり、日本語では「書く」という行為が、その結果である「文章」と言語的につながっていない、ということになる。一方、英語だと「書いていること writing」がそのまま「書いたもの writing」になるし、フランス語も「書く écrire」が「書いたもの écriture」になる。この不自然さ、乖離にはなにかおもしろいものがあるのかもしれない。

    読んだ本や観た映画を日記以外に記録できる場所を見つけていて、読書メーターとかフィルマークスはあまり自分にフィットしていないと思っていたが、調べてみると「記録」というアプリがあって、それはシンプルで使いやすかった。こういうものはシンプルで機能が少ないほうがいいと思う。EvernoteやNotionは機能が多いし、すべてのことを一つにまとめようとしている感じがあまり受け付けない。他の人がどのように「仕事」を構築して整理しているのか(Todoリストから執筆作業、情報収集、情報の整理)を知りたいと思った。参考にしたいと思うし、こういう話はあまりしないと思う。しているのはソフトウェアエンジニアのブログくらい。

    今日のこと。コメダでクリームソーダを注文した。PLAN75の影響だろう。コメダを出ると、雨が降っていて、半円の虹が二つもかかっていた。みんなが駐車場で空を見上げていた。カールおじさん(原題はUP)、目(mé)の作品、DON’T LOOK UPを思い出す。

    夕食に春巻きをつくった。具をたくさんつくってしまい、大きい春巻きを10個もつくった。おいしかった。

    2024.1.22