2023.9

  • 2023.9.30

    外に出ると、明らかにくしゃみと鼻水が出るので、花粉症であることを察知した。秋の到来を鼻で感じるというのはなかなか嫌なものだが、あの暑さも終わりを告げようとしている。夏が終わって振り返ると夏の良い面を思い出そうとしがちで、暑さを美化してしまうけど、ここでちゃんと断言すると明らかに今年の夏は暑かった。レベチというやつだ。

    やりたくないけど、やらなければならないことをやるためにはどうすればよいのだろう。高校のときまでは試験のための勉強を後先考えずにやることができたけど、いまではなぜそれをやらなければならないのかということを考えながらやるということになるので、それではやりたくないことをやることは難しい。もちろん、やらなくていいことはやらなければいいし、それでよければ話は簡単なのだが、なにか遠くに到達したいことがあって、それに到達するためにやらないといけないことがあって、それがやりたくないことだった場合、どうするかという話がある。そして、多くの人はやりたくなくてもやるというように言うだろうし、いままでも散々そう言われてきたし、自分も人にそう言っていたのかもしれない。とくに塾講師のバイトをしているとそういう機会が多くある。しかし、それでやりたくないことをやっているとき、それによって到達する予定のことにほんとうに到達したいのか、わからなくなる。

    なにかに到達しないといけない、という社会からのプレッシャーはものすごい。いまだにヘーゲルのようなことを言っているのかと呆れるばかりだけど、目標を持て、やら、結局なにをやりたいの、とか、もうどうでもよくなってきた。そんなことを書いていると、もう2023年の9月が目の前から失くなった。

    2023.9.30
  • 2023.9.29

    読書会の後、あまり眠れそうになかったので、久々に詩でも書いてみるかという気持ちで、月について書いた。いまだに一人称と二人称の位置づけが自分のなかでも定まっておらず、なんだかありきたりな詩になってしまったけど、こういう勢いが大切だと思い、深夜に書いたものを若干編集してツイッターとインスタに載せておいた。しかし、詩なんて短歌より長いし、写真より情報が遅く入ってくるので、とくにいいねとかはつかないし、とくに自分がそんないいねがついても、と思っていたので、でもこれを書いている時点でいいねとかそういう情動的なことがほしいというわけであって、まあそう矛盾した動物なのだ、私というやつは。

    夕方から仕事で、その合間に職場の近くにあるカレー屋さんでキーマナスカリーを注文する。これがなかなか美味しかった。カレーももちろん美味しいのだけど、付け合わせの野菜(これはなんという名前がついているのだろうか?)の酸味がカレーに相まって、これが相乗効果かと唸っていた。そのあと、少し時間が余っていたのでブックオフまで歩いていく。哲学・思想のコーナーは相も変わらず小さくて、その隣にあるスピリチュアリティと心理学は自己啓発本のような本で充実している。相も変わらず。新書や文庫小説はもちろんたくさんあって、ブックオフに行くと本屋さんで買う本とは明らかにちがう系統の本を買っている気がする。それぞれ230円で星野源の『いのちの車窓から』、大泉洋の『大泉エッセイ』、ブレイディみかこの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を購入。

    2023.9.29
  • 2023.9.28

    読書会は日々の楽しみのひとつだ。もちろん読んだものについて意見を交換して、ああだこうだ言いながら、ジェイムソン(いま、フレドリック・ジェイムソンを読んでいる)の文体のここがいいとかわかりにくいとか深夜に言うことの気持ちよさというのはある。そして、毎回恒例の近況報告はもはや読書会のメイン行事として冒頭の2時間近くを使って、お互いの近況を報告する。勝田さんはジジェクについての連続講義をするということで、一人でいろいろとしなければいけないことが出てきて大変そうだが、一二回は現地で手伝いたい。まあ勝田さんのことだからなんとかなるだろうけど。さすがに1時すぎになると少し眠くなり始めて、15分くらい勝田さんと山下さんが二人で喋っているのをただ聞いているときもあった。読書会は2時過ぎに終わった。

    2023.9.28
  • 2023.9.27

    労働として文章を書くことが苦しいと感じることが多くなってきた。いろんな人から文章を書くことだけでは食っていけないから、兼業でやっていくしかないということを聞いたし、インボイスによってそのような声が強まることは容易に想像できる。文章を書くことが好きだし、多くの時間にそれを割いているし、自分にしか書けないものがあるということを思っている節もある。しかし、取れるかもわからない奨学金に応募するための文章なんか書きたくないし、つまらないものについてやつまらない形式で文章を書くこともつまらない。結局、文章を書くことが好きだといっても、特定の文章を書くことしか好きではない。そんななかで、自分の文章のよいところをみてくれる人にも恵まれていると感じるから、そういう人たちがいるとやっていてよかった。

    だけど、真に好きなものなんてあるのかという話になって、それは岸政彦が100分de名著の『ディスタンクシオン』本でも書いているように–それはもともとブルデューが言ったことであるわけだけど–好きなことや趣味は社会的でもある。つまり、この人の好きなことがこれだから、自分もやってみようとか、他者の欲望を欲望することなんかよくある。私なんか他人が頼んだご飯をなぜ頼まなかったのか、いつも後悔するくらいだ(といって、ほとんどの場合、自分が頼んだご飯はおいしい)。最近、コンビニで買うペットボトル飲料も、レシートに無料引換券がついてくるのを優先して買っているわけであって、べつにソイラテなんて飲みたくないのに、買った一週間後に待ち受けているコーヒーのために犠牲を払っているといってもいいし、そして買ったソイラテはおいしくなかったので、冷蔵庫に入れておいてある。牛乳はお腹にあまりよくないけど、コーヒーに入れるのは牛乳だし、無料引換券のレシートとはちがって、そのときは後先考えずに牛乳の入ったコーヒーを飲む。そういう背徳感のある欲望が社会に干渉されていない、真に個人的な欲望なのかもしれない。文章を書くこともそうでないと。背徳感のある執筆。

    2023.9.27
  • 2023.9.26

    秋風が気持ち良いと思っていたら、まだまだ夏を感じる日差しだし、それを残暑と表現した最初の人はなかなかやるじゃん、と思う。朝はエアコンをかけなくてもちょうどよいくらいの気温だけど、昼になると暑くなってきてエアコンをつけるけど、それで少し寒くなったりして、けっきょくエアコンで生ぬるい風を送っている。こういうふうにして人生もうまくいかないものだ。くすぶる感じというか、特段大きな変化はないのだけれど、やはり淋しさが基底にあって、それがついては離れない。そういうときには大きな変化を起こすということでどこかほかの場所に移動したり、髪型や髪色を変えたり、部屋の模様替えをしたりするといいのかもしれないけど、移動するのにはエネルギーが必要だし、それがたくさんあるというわけではない。だったら、動かないということになる。

    動かないときは動かないから、必要に駆られて動くということを設けないといけないということで外に出て働いたり、カフェに行って作業をしたり、そういう物理的な移動を施すことによって淋しさを紛らわすことができるし、それでしか紛れることがないのだろうが、人はずっと動けるわけではないし、やはり淋しさは感じてしまう。

    『親密さ』の後半、演劇の部分。演劇じたいの終わり方は淡白だったけど、あれでよいと思ったし、映画の最後が強いから、演劇の終わりが強くてもおかしくなると思う。複雑な家族関係、「軽い女」であるということ、トランスジェンダー、身体の境界線、手紙が届かないということ。ゆきえがしんのすけ宛の手紙を、電話越しに佳代子に読むシーン。ゆきえの手紙は衛によって破られ、しんのすけのもとには届かない。しかし、ゆきえが唯一の友達だと思っている佳代子のもとには届いた。しんのすけとすれ違いざま、衛は「死にたい」と聞きづてならないことをつぶやく。衛はしんのすけが佳代子のことが好きであることを知り、ゆきえのラブレターを破る。手紙を破ることは暴力であるが、暴力は暴力を受けた側が暴力であると認識しない限り暴力ではない、と衛は自身の書いた詩を悲観的に朗読する。知らなければよい、という悲惨な現実を無情なほどに突きつけてくる衛を演じる良平は2年後に義勇軍として戦争に参加する。私が彼に同情するしないにかかわらず、選ぶ自由を行使した衛=良平は最後まで彼らしかった。

    2023.9.26
  • 2023.9.25

    インボイス制度の見直しを求める署名が国の長に受け取りを拒否されたそうです、と彼が住む家にご意見を送る。もらえるはずのお金がもらえないのはおかしい。だから、抗議する。そして、第二にそういう状況が個人でものをつくる人たちに偏ってのしかかる。わたしもその一人だという自覚が芽生え始めたのは、日記を本にして売ったり、書くことでお金をもらったりすることが少しずつ出てきて、そのなかで実際にインボイス制度が、私が働いてつくったものの対価を減らすほうに作用していることがあってからだ。だから、抗議する。反対にそのような状況にいなければ、抗議しなかったのかというとそれはわからないけど、しない可能性もあると思うと怖い。だから、抗議する。

    『親密さ』の最初の半分を観た。映画に演劇を重ねる濱口の手法が存分に発揮される。台本の台詞を読み上げるような電車のなかでの薄っぺらい会話。朝鮮戦争が再開して、「義勇軍」に志願するみっきーに、れいれいが「なにを選択しようと自由だけど、あなたの決断はみんなのやっていることにつながっている」と言い聞かせる。「なにを選択しようと自由」なのか。もちろんみっきーにも志願する理由があるが、それを「自由」と言い切ってよいのか。私もちょうど自由について考えていた。私は人やお金を失ったかわりに自由を得たのかもしれない。しかし、人もお金もあって自由にもなれないもんか。

    政治のことばかり言っていると人間関係が壊れる、みたいなツイートを、映画祭でやっていたあの中絶した女性をインタビューする形式をとるフェイクドキュメンタリーの監督がしていた。そうだったら、私は人より自由を選ぶ。しかし、人もお金も自由も選びとってはダメなのだろうか。

    私たちは戦争を止められるのだろうか。

    2023.9.25
  • 2023.9.24

    アホだから、日曜の朝9時からオンラインのチューターを入れてしまった。しかも毎週。日曜に早起きする口実として設定したのはいいものの、私がまったく朝型ではないことは幾度も証明されてきているし、前日の夜遅くまで東京で友人と飲んで、新幹線の終電ギリギリまで品川駅の歩道橋でプリンスホテルを眺めながら飲んでいたとなると、その口実をすぐにでも破棄したくなる。しかし、1時間やって3000円もらえる(マイナンバーカードをもっていないからなぜか全額もらえないけど)し、こちらとしても一応社会的なメンツというものはあるから、やるしかない。そして、それが終わったらNHK杯の将棋を横目に二度寝するわけだ。そんな日曜の朝。

    原泉で出会った松島さんに紹介されて、DHARMAでおこなわれている青木一香さんの展示に行く。松島さんが所属する沼津の美術集団ENのドンである青木先生は1968年に沼津美術研究所を創設した人で、ベージュ色のジャケットを着て展示会場の椅子に座っていた。すごく気さくな方でいろいろ教えてくれた。作品はお経のように和紙にびっしりと「無」という字が書かれていたり、それが球体となってまるで宇宙のような空間が広がっている。人類の声を聞きながら、文字を楽しそうに書く青木先生の姿が浮かぶ。もっと評価されていい現代美術作家であり、みたらし団子もくれた優しいおばあちゃんでもあった。DHARMAは11月で建物が取り壊されるらしい。悲しかったけど、青木先生はあまり気にしてないようだった。もちろん気にしているのだろうけど、それを気にするよりも次に進もうというエネルギーを感じた。また行こう。

    2023.9.24
  • 2023.9.22

    今日もどんよりしている。身体も同様にどんよりする。朝は早く起きれるが、なんとなく身体が動かないのは気圧のせいだろう。コーヒーを飲んでも眠気を感じるので、そのままお昼前までベッドで寝っ転がる。そうしていても埒が開かないので、カフェに行って作業しようとするが、あまり外に出る気もない。でも仕事があるから出なければいけないので、出る。カフェに行く。アイスコーヒーと焼きサンドのセットを頼む。今日の焼きサンドはゆで卵とチーズ(たぶんモッツァレラ)、レタス、トマトソースが入っていて、若干マルゲリータの味がするけど、バジルは入っていない。ぼくはピザだとなんでも食べるけど、とくにマルゲリータが好きだということはまったくの余談である。

    東京芸術祭のパンフ記事の初稿を書いたので提出する。規定量よりも500字多く書いたけど、他人に一回委ねることによって、時間を置きながら、その人にコメントなりをしてもらって、そこから新たなスタートラインを定めることができる。スタートラインを引き直すことができるのが、書くことのいいことだと思う。体力テストの持久走は一度しかスタートラインを引くことができない、いやスタートラインはもともと引かれている。書けば、自分でラインを引けるし、何回も引き直すことができる。やり直しの余白が与えられていることは大切だ。それはやり直すことがいいと言っているわけではなく、その余白があることがいいと言っている。両者はたぶん多分に違う、と思う。

    2023.9.22
  • 2023.9.21

    最近なにかと書き続けている。もちろんこの日記も書き続けているのだけれども、日記以外にも東京芸術祭のための記事を二本書いたり、大学院や奨学金のための書類だったり、書いている。そして、同じ文章と毎日向き合っては、書いては消して、それを繰り返している。だから、なにか積極的に新しい文字を生み出すというよりも、スクラップアンドビルドに近い。ゼロイチではなく、ゼロイチとイチゼロの反復である。それがイチになっていく弁証法的なプロセス。ただ、はたして弁証法的なのかというと厳密にはわからない。どちらかというと、ゼロニ、もしくはゼロサンをしてから、イチにしていくというほうがあっている。まずはとにかく文字数を書いて、それを削っていく。削る作業はコツをつかめば比較的簡単なので、まずは文字数を増やすことを目標にする。たとえば今書いている東京芸術祭のパンフレット記事は1500字maxなので、3000字弱書いてからいらない部分を削る。いらない部分は意外にもたくさんある。必要のない接続詞や飾り言葉、そして同じことが繰り返されている文は消して、一つの文にできるところはそうしていく。そのとき重要なのはバージョンを細かく残しておくこと。Google docsの編集履歴は優秀だけど、あれは記録が残るだけで、見やすさでいえば、自分でこまめに新しいバージョンをつくることで、前書いたことを再利用することができる。文章を書くときはなんでも早くできることが大切だと思っていて、そうじゃないと思いついたことをどんどん忘れてしまう。手がなるたけ思考に追いつけるような環境を整備すること。UlyssesをMacとiPhoneで同期したり、適宜に紙でメモをとったりすることで、手が止まることを防ぐ。

    書くことは大変だ。書く労力はすべての人が経験しているにもかかわらず、正当に評価されない。つまり、誰しもがつまづいたことのある、小学生のころの夏休みの宿題で出される原稿用紙3枚の読書感想文にかかる時間と労力を知っていれば、原稿料をもっと払ってくれてもよいはずなのだ。いや反対に、誰しもが書くことができるからこそ、翻訳などの専門職とは違って、専門性がないものとして見られている節は必ずあると思う。専門性が高い仕事イコール給料が高いという等式は成り立つ前提がどれだけ脆いものかということを知りながら、いつまで医者と弁護士に高い給料を払うつもりなのか。

    2023.9.21
  • 2023.9.20

    今日は何日だっけ、と腕時計の日付表示を見てみると、一日ずれていた。

    「ナイトフィッシングイズグッド」の「何もない夜に 何かあるような気がして」という歌詞がエコーする夜。

    面談をした担当者の名字をずっと勘違いしていた。彦屋敷ではなく、産屋敷。どのくらい珍しいのか調べてみると、それよりさきに鬼滅の刃の登場人物が出てきた。190人のなかのひとり。

    『水曜どうでしょう。』のヨーロッパ21ヶ国完全制覇の旅。ハイジに扮するミスターが山辺を駆け降りる途中に、牛のフンを踏みつける。

    東京芸術祭の編集室ミーティング。アシスタントライターについて書いた文章が「いい感じ」だと言われた。個人的にはチャレンジングな文章だったので、それが評価されてよかったし、安堵した。

    ニュースレターをやる、みたいな話を前したけど、結局しなかった。とくに誰も登録してくれなかったから、蓮沼執太とか永井玲衣くらい有名になったらまたはじめてみよう。

    2023.9.20