2023.3

  • 2023.3.31

    頭が痛く、右顎も痛い。顎関節症なのかもしれない。同僚に言ったら、わたしも子供のころ寝ているときに歯ぎしりがひどかったと言っていた。たまに話は通じないことがあって、それもまたよい。むかしつけていた矯正器具で、針金の痛い矯正が終わった後につける歯の位置を保持する安っぽいプラスチックの器具をつければ、多少とも歯ぎしりは収まるのではないかと思ったが、その器具は実家にあるし、まず歯ぎしりしているのかも、していたとしてそれがいまわたしの右顎が痛いことと関係しているのかもわからない。だから、それでよいことにしよう。そんなものだ。

    明日は土曜日だというのに、仕事だ。そのかわり、一日休みをもらえることになったが、身体が疲れているので、友人に薦めてもらった近くのスパで60分のマッサージを受けることになった。明日の仕事終わりに予約を入れた。そのスパというのも個人経営で銀行のうえに店を構えている。施術料は高いが、自分への投資ということにしよう。給料もきのう入ったわけだし。

    そういえば、最近といっても5日前だが、『新潮 3月号』に入っている甫木元空の「はだかのゆめ」という中編小説を読んだ。真夜中に読み始めて、2時間半かけて一気に読み終えた。その余韻が今でも残っている感じだ。話のあらすじといえば、ある青年が母のガンをきっかけに、祖父の家に居候するようになって、その家が高知の四万十川の近くで、青年の父は川の氾濫で行方不明だ。冒頭から物語は曲線的に、いや断絶しながら展開していく。そのなかで重要になろうキャラクターが主人公の青年に憑く「彼奴」の存在だ。なにか化け物のような、ペットのような、鳴き声を発したり、青年の思考を制御したり、やりたい放題なのかと思えば、彼奴は次第に登場しなくなる。彼奴は父の亡霊なのかもしれないし、青年の妄想なのかもしれないが、それは母と祖父との関係性の深化によって彼奴のエネルギーは収まっていく。物語は父の骨が埋められている家族の墓に行く途中で終わる。

    突然の死、そしてそれを受容しようとする。そして、母の癌の手術と治療。たとえ両親と自分との関係性があまりよくなくても、やはり悲しいと思うことことはある。それをどう受容するか。三月の終わりを思い浮かべる。十二年前の三月、突然まえからいなくなる存在をどう受容するか。それは他者をどう受容するかにかかわってくる。ここで「受容」とは「受け入れる」というようなニュアンスで使っていない。より高度な次元で、より困難な過程を経て経験される。受容は反発や拒絶をも受容するという意味で同語反復的でもあるが、受容とはそういうプロセスであるかもしれない。こんなことを書いているあいだに窓の隙間から雨音が聞こえてきた。夜に降る短時間の大雨は一日の悪路をさらい、朝を迎えようとする。新しい朝を受容するとはどういうことなのだろう。新しい夢を。

    2023.3.31
  • 2023.3.30

    最近はなにかとやる気が出ない。仕事から帰ってくるとベッドに一直線。そのまま画面の快楽に浸る。それは楽しい世界なのかもしれないが、どこかで何をしているんだ、自分となっている自分もいる。しかし、なかなかその世界から脱出することは困難だ。身体が疲れているならなおさらだ。とくに睡眠に支障はないし、なにか変なことがあるといえば今日は頭が軽く痛いのが続いていただけでとくにない。あるとすればストレスからくる過食だろう。この仕事に就いてから、仕事柄もあるだろうが、けっこうただで食べられる機会が多くて、夕食を食べても夜の9時くらいになればお腹が減る。空腹ってわけじゃないけど、なぜか食べ物が欲しくなる。そういうときに食べるものは基本的に健康に悪いので、二重に太るという仕組みになっているので、そういう世界にいるのは怖い。たんなる恐怖だ。

    今日はなにがあったかというと、とくになにもなかったわけだが、いままでこの日記は「日常から思考を差延する」という意味のわからないことをモットーもしてきたので、今日なにが起こったかだけを記述するのは避けているけど、あらためて考えてみればこういうことを書いている時点でその日の気持ちだったり考えていたことだったりが内容だけでなく、文章の長さ、日記の有無、文体などあらゆる角度から考察することができて、それは楽しい。日記を書いている楽しさというのはあとで自分で過去の日記を見返しているときにある。それは変化の軌跡であり、歴史でもある。そんなことを考えながら今後もつづけていこう。

    2023.3.30
  • 2023.3.23

    こっちでも春が訪れそうだ。ここ一週間の天気予報をみてみると雨が続くみたいだ。つまり、春の訪れは近いということだ。季節はなんでも雨が降ることによって変化するものだと勝手に思っているから。雨がよいのは外出するときではなく、花粉症を心配しなくてよいところにある。しかし低気圧の頭痛はそうもいかない。なんとなく気分がもやっとするのは天気のせいなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。でも春はもう近いからそう心配することはない。あとすこしの辛抱だ。

    今日は二件ミーティングがあって、そのあとはムスリムの学生のイフタールの手伝い。イフタールとはラマダーン(断食)を破る日没後最初の食事のことで、その食事はとても豪華だ。イスラム教徒だけでなく、それ以外の友人を招くことも慣習としてあって、それによって非ムスリムにも「あげる」。そんな素晴らしいことがあったりする。だから少しでも手伝えればいいなという気持ちだ。なにを調理するのだろう、楽しみでしかたがない。学生から塩と砂糖がほしいと言われたので、家から持っていくことを忘れないようにしないと。

    2023.3.23
  • 2023.3.22

    学生たちは春休みなのでとくにする仕事はない。仕事もリモートだし、ゆっくり起きてアイスラテを飲み、三階のお気に入りの緑の椅子に座り、スピーカーでNTSラジオでも聴きながら、とどく1、2件のメールに返信する。来週以降の準備をしながら、時を過ごす。ほんとうにすることがないわけではない。やることをつくるのは得意なほうだ。忙しいほうが忙しくないほうがよりいいという考えには全面的に反対するものの、一方で肯くこともできる。昨夜はWBCの決勝を観戦。最後の打席は大谷とトラウトのエンゼルス同士の対決に熱狂しながら、ピザとビールで祝杯をあげる。宅配ピザがなぜか半額になっていたので、一人なのに二枚も注文してしまった。試合が開始するまえに、もはやビールで満腹になってしまい、ピザは食事からつまみに成り果てた。宅配ピザなんて冷めてからが勝負なのだ。試合後の余韻に浸りながら、それも残念ながら長く続くわけではなかったが、ピザの脂でニキビができないかと心配しながら入念に洗顔、化粧水、パックをおこなう。そして、音楽を聴き、寝る。

    化粧水とか顔のパックっていまいち効果/意味を実感しないのだが、そこに時間をかけることに意味があると思ってやっている部分はある。でも乳液は間違いなく意味がある。

    春休み中に自宅で過ごすのもいいと思いながら、いろいろ仕事をしているときはできないことをやってみる。たとえばまえ日本から送られてきた短歌の本を読んだり、長い難しい文章を書いたり、映画を観たり、一人でできてなおかつ時間がかかることをやった。オンラインショッピングもした。なぜかティソの腕時計を買った。腕時計といえば、数年前図書館になくなった/盗まれたっきり着けていない。スマホをみればじかんがわかるし、といった感じでその場を乗り切っていたのだが、やはりバイトで稼いだ買った3万くらいの北欧の腕時計は頭の中からは消えない。けっきょく買ったのは北欧ではなくスイスの腕時計なのだが。そういえば最近自分と自分の周りの人でものをなくす人が多いような気がする。つい最近、仲のよい同僚が車の鍵をなくした。しかし、僕が彼女のオフィスに入ってみると、床に落ちていたので、「灯台下暗し」ということわざを教えてあげた。「It’s dark under the searchlight」と訳すと「うん?」となっていたけど、よくよく考えてみたら「searchlight」は懐中電灯のことで灯台は「lighthouse」と言うのだった。失敬、失敬。思ってみれば、『ライトハウス』というA24配給の映画があったような。観てみてもいいかも。A24といえば『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』が観たかったので、それといっしょに今夜は観よう。野球の試合ももうないわけだし。

    2023.3.22