2022.11

  • 2022.11.29

    ブダペストから帰りの飛行機のなかではじめて機内Wifiというものを買ったものの、動画はろくに観れないし、仕事のメールは来るし、といった感じで今後はいっさい機内Wifiを購入しないことをここに誓った。それは飛行機という電波が届かない場所を飛ぶものがわたしたちが唯一スマートフォンという悪魔から逃れられるユートピアであることを如実に示している、ということを今わたしはスマホで書いているという矛盾を今後いっさい抱かないという誓いでもある。そうだとしても、わたしたちは飛行機のなかでなんとか自分の正気を保つためになにかしらに意識を集中させる。それは目の前のスクリーンだけでなく、隣のひとがガッツリと肘置きに肘を乗っけているのをずっと我慢したり、その隣のひとの睡眠を邪魔したくないから、必死でトイレを我慢したり、機内での我慢の連続はけっきょくなにかしらに意識を集中させるのに役立つのだ。そんなことを考えながら飛行機に乗っている人も多くはないと思うが、反対にほかの人たちは飛行機でなにを考えているのだろうか。今わたしは文章に意識を集中させたい。肘置きに肘を置けないながらも、わたしは必死に文章を入力している。日々のなかでここまで意識を集中させることはないのだから。

    わたしは10日かけてハンガリーのブダペストとオーストリアのウィーンを旅してきた。10日といってもそのうちの3、4日は移動に費やされた。安い飛行機だったから、行きはニューヨークで一晩、帰りはチューリッヒで一晩過ごしたので、そのぶんのAirbnb代はかさんでしまうが、それでも直行便よりは格段に安い。アメリカの大学に行っていたり、働いていたりすると、どうしても長距離のフライトをトレーニングのようにたくさんこなしてきたから、安いフライトを探すのも、機内での我慢も慣れている。だからこそ、サンクスギビングの1週間という短いなかでも海外行きを決断できた。それは金銭的な余裕でも同じことがいえる。安いといっても飛行機のチケットは安くはない。大学生のときは毎回不安になりながらチケットを買っていたものだ。その不安とはお金が減っていくことに伴う不安だ。しかし、学生を辞め、働きはじめるとお金を費やすことはあくまで自己責任となった。それはお金を使うことの自由でもあれば、お金を使うことの危険性が直接自分に降りかかってくるかもしれないという不安の二重性でもある。その危険性をある程度無視して、自由を尊重すればお金を使うことは案外容易い。

    慣れは怖いが、慣れがものを前進させることは多い。だから、わたしは人生ではじめてのヨーロッパ行きを決めたのだ。結論からいうと、行ってほんとうに良かったと思う。ウィーンにかんしては、大学一年でウィーンの歴史の授業を受けた以来、ずっと行きたかった芸術と音楽の都だった。ブダペストにかんしてはほとんどなにも知らない状態で行ったからこそ、おもしろい経験ができた。雑多でコスモポリタンで、ウクライナとも国境を共有するハンガリーの首都はハンガリーのさまざまな不安定さを反映しながらもその不安定さはその街の魅力でもあった。

    この旅は一人ではしなかったと思う。友人たちが誘ってくれたからこそ、慣れに身を任せることができた。ブダペストやウィーンで起こったことならいくらでも書くことができるが、わたしはその背景にあったことから書きたかった。周りから「なんでヨーロッパに行くの?」と散々聞かれ、自由意志より慣れを選んだ(選ばれた?)わたしは答えに困った。「なぜ」という問いにはたくさんの思惑が隠されているだろうが、第一にわたしの自由意志を固定させたいという思惑があるのだろう。しかし、わたしのどこを探してもそんなものはない。それでわたしは生きてきたし、これからもそれであるだろうから、とは断言できないのもまたおもしろいだろう。だからこそ、不安定なブダペストに引きつけられたのかもしれない。

    2022.11.29
  • 2022.11.17

    最近は夜遅くまで仕事などがあって、すぐ眠くなってしまい、日記が書けない日々が続いていた。今日は眠いが、少しでいいから書くかという気持ちになったので、書こうと思う。仕事が夜遅くまであるからといって、規則正しくない生活を送っているわけではない。毎日きちんと同じような朝食をつくり、食べ、食器を洗い、自転車で職場へ向かう。朝食は基本的にご飯とベーコンエッグ、もしくはオムレツ、そしてスープかほうれん草のソテーのような献立である。自分からしたらずいぶん時間をかけてつくっているなと思うので、それには自信が持てる。しかし、たとえ「規則正しい生活」を送っているからとはいえ、それに満足できているか、楽しんでいるか、といえばそうでもない。毎日同じようなことをする、いわゆるルーティンワークはイチローのように常に高いクオリティが求められる仕事では必要なのかもしれないが、そこまで高いクオリティが求められないぼくの仕事ではたとえルーティンでなくてもとくになにも変わらない。思想的にもぼくは「規則正しさ」とは反対の思想を信じているほうだし–それはポスト構造主義ともいえるだろう–大学でフーコーを読んできた身からすれば、反対を志向するのも不思議ではないだろう。

    ただ考えてみれば、「規則正しくなさ」を実践するには「規則正しさ」も必要なのかもしれない。つまり、たとえばそれはメールを送信するだったり、なにかをスキャンするだったり、ブルシットジョブとも呼ぶことができる仕事をしないと、その上部にあるより抽象的な議論ができないということ。規則正しさをなるべく早く「効率的に」終わらせて、「規則正しくなさ」にすぐ移ること。だが、それだと出来過ぎではないか、とも感じてしまう。

    ぼくがいっている「規則正しさ」をロボットや機械にたとえることがあって、それはたしかにそうなのかもしれないけど、そこで人間と対比させて、人間は規則正しくないことが取り柄です、といっても意味がないと思う。何事も真面目に規則正しくやりこなす人に対して、人間らしくないと言っても、なにも変わらない。ただ人間にできることがあるのだったら、それは良い意味でも悪い意味でもあたらしい規則をつくることだとぼくは言うだろう。それは思想であって、人間を動かす装置でもある。考えてみれば、ぼくが「規則正しく」生活したいと思ったとき、その規則はほかの人が勝手に決めて、それにぼくが勝手に従っているだけだ。規則をつくりかえながら、なんとか生き延びていくこと。そこに正しく生きていけば、「規則正しい生活」はいくらだって、「規則正しくなく」なる。

    2022.11.17
  • 2022.11.11

    久々に日記を書こうと思ったのは、べつに今日がポッキーの日であるからではなく、ただ日記が書きたいと思っただけだから。今週はさまざまなことがあって、体力的にも精神的にも疲れた。というのも、先週の金曜日から3日間ボストンに行っていた。ちょうどボスキャリの期間で、多くの友人がボストンを訪れていたから、ぼくも行くことにした。そんな簡単な理由で遠出できるようになった。さっそく金曜はフライトが約2時間遅れ、スタートダッシュはまったくうまく行かなかった。搭乗開始を待っているその2時間のあいだに多くの思いが頭の中を駆け巡ったのは、同僚からの電話をとったあとだった。それはぼくが働いている大学の学生が亡くなったという報せだった。その学生はぼくが働いている大学の対話プログラムの参加者で、先週の月曜日の対話で実際に対面で会ったばかりだ。ぼくは1対1で話したことはなかったが、楽しそうに他の参加者と談笑している様子をぼくはみていた。だから余計にショッキングだった。人がこんなにも簡単に死ぬなんて知ってはいたが、思ってはいなかった。

    そんな重い感情を抱きながら、飛行機に乗ってボストンに向かう。いつもはイヤホンの中に自分を投げこむように2時間を過ごすのだが、そのときはイヤホンを外し、ただ茫然とエンジンの重低音とやけに陽気な格安航空のCAのアナウンスを聞いていた、というよりも聞かされていた。不謹慎だったかもしれないが、いつも飛行機に乗っているときに感じる「いつか墜落して死ぬかもしれない」という考えはより一層強まったし、逆に全く霧散したのかもしれない。覚えていない。

    ボストンはもちろん楽しかったし、知っている人にも知らなかった人とも話すことができて、それは自分にとっても学ぶことがたくさんあって、それはよかった。だが、ぼくがボストンにいるあいだにも訃報に悲しみ、うなだれ、奔走している人がいることを知っているからこそ、なんだか罪悪感のようなものがぼくの後ろにまとわりついていた。

    この死は身近な人の死ではなかったが、すごく強く印象に残っている。ぼくはまだ一度しか身近な人の死を経験したことがない。それはぼくが小学五年のとき、学校で薬物講座を受けていて、みんなが体育館で眠そうにしていたときのことだった。「クスリ、ダメ、ゼッタイ」という文字がスライドに大きく映されて、警察官がそれを大きな声で読み上げたのち、ぼくは担任の先生に呼ばれ、そのまま母親と一緒に帰宅し、そのまま父方の祖父の通夜へと向かった。祖父との思い出は正直あまり覚えていない。祖父がベッドにずっと寝ていたことくらいしか記憶にない。顔も髪も格好も非常に老いていた。だから、死化粧がそういう意味ではよくできていたのだと思う。棺桶のなかの顔は不気味ではなかったから。

    通夜はあまり覚えていないが、葬式のことはよく覚えている。お寺のなかで横一列に親族が並ぶ。お坊さんの念仏と木魚のポクポクを聞きながら、周りの人たちは数珠をこする。父親は泣いていなかった。ご焼香という、線香の灰をつまみ何度か額につけてはもどすということを作業のようにこなし、小学五年のぼくはその夜の食事を楽しんだ。この頃からぼくの人見知りは始まっていた。祖父が死んでいなければ、こんな多くの親族にも会っていなかった。

    「この人が死んでいなければ…」と思わないように、日頃から周りの人に感謝の気持ちを伝えるべきだという言葉は頻繁に語られるが、ここまで説得力をもってこの言葉が心の中に響いてきたのはなかったくらい、学生の死はぼくの心を呼び戻した。どこへ?ぼくの心はぼくの近くに戻された。ぼくが死んだら、だれも泣いてくれないだろう。なんて言わないで、ぼくはぼくの近くに行くしかない。

    2022.11.11