ブダペストから帰りの飛行機のなかではじめて機内Wifiというものを買ったものの、動画はろくに観れないし、仕事のメールは来るし、といった感じで今後はいっさい機内Wifiを購入しないことをここに誓った。それは飛行機という電波が届かない場所を飛ぶものがわたしたちが唯一スマートフォンという悪魔から逃れられるユートピアであることを如実に示している、ということを今わたしはスマホで書いているという矛盾を今後いっさい抱かないという誓いでもある。そうだとしても、わたしたちは飛行機のなかでなんとか自分の正気を保つためになにかしらに意識を集中させる。それは目の前のスクリーンだけでなく、隣のひとがガッツリと肘置きに肘を乗っけているのをずっと我慢したり、その隣のひとの睡眠を邪魔したくないから、必死でトイレを我慢したり、機内での我慢の連続はけっきょくなにかしらに意識を集中させるのに役立つのだ。そんなことを考えながら飛行機に乗っている人も多くはないと思うが、反対にほかの人たちは飛行機でなにを考えているのだろうか。今わたしは文章に意識を集中させたい。肘置きに肘を置けないながらも、わたしは必死に文章を入力している。日々のなかでここまで意識を集中させることはないのだから。
わたしは10日かけてハンガリーのブダペストとオーストリアのウィーンを旅してきた。10日といってもそのうちの3、4日は移動に費やされた。安い飛行機だったから、行きはニューヨークで一晩、帰りはチューリッヒで一晩過ごしたので、そのぶんのAirbnb代はかさんでしまうが、それでも直行便よりは格段に安い。アメリカの大学に行っていたり、働いていたりすると、どうしても長距離のフライトをトレーニングのようにたくさんこなしてきたから、安いフライトを探すのも、機内での我慢も慣れている。だからこそ、サンクスギビングの1週間という短いなかでも海外行きを決断できた。それは金銭的な余裕でも同じことがいえる。安いといっても飛行機のチケットは安くはない。大学生のときは毎回不安になりながらチケットを買っていたものだ。その不安とはお金が減っていくことに伴う不安だ。しかし、学生を辞め、働きはじめるとお金を費やすことはあくまで自己責任となった。それはお金を使うことの自由でもあれば、お金を使うことの危険性が直接自分に降りかかってくるかもしれないという不安の二重性でもある。その危険性をある程度無視して、自由を尊重すればお金を使うことは案外容易い。
慣れは怖いが、慣れがものを前進させることは多い。だから、わたしは人生ではじめてのヨーロッパ行きを決めたのだ。結論からいうと、行ってほんとうに良かったと思う。ウィーンにかんしては、大学一年でウィーンの歴史の授業を受けた以来、ずっと行きたかった芸術と音楽の都だった。ブダペストにかんしてはほとんどなにも知らない状態で行ったからこそ、おもしろい経験ができた。雑多でコスモポリタンで、ウクライナとも国境を共有するハンガリーの首都はハンガリーのさまざまな不安定さを反映しながらもその不安定さはその街の魅力でもあった。
この旅は一人ではしなかったと思う。友人たちが誘ってくれたからこそ、慣れに身を任せることができた。ブダペストやウィーンで起こったことならいくらでも書くことができるが、わたしはその背景にあったことから書きたかった。周りから「なんでヨーロッパに行くの?」と散々聞かれ、自由意志より慣れを選んだ(選ばれた?)わたしは答えに困った。「なぜ」という問いにはたくさんの思惑が隠されているだろうが、第一にわたしの自由意志を固定させたいという思惑があるのだろう。しかし、わたしのどこを探してもそんなものはない。それでわたしは生きてきたし、これからもそれであるだろうから、とは断言できないのもまたおもしろいだろう。だからこそ、不安定なブダペストに引きつけられたのかもしれない。