東京都現代美術館で開催される予定の「あ、共感とかじゃなくて」のウェブサイトをみていた。なんとなく要旨はわかるというか、共感するというか、共感や想像力が問われる時代にある種の逆張りをおく狙いは理解できる。参加するアーティストも知らない人たちがほとんどで、展示される作品自体には惹かれた。しかし、なにか違和感を抱いたのはサイトに載っている文章の文体。
中島伽耶子(なかしまかやこ)
空間を大きく斜めに横切る黄色い壁は、暗い部屋と明るい部屋を隔てています。壁の向こう側の様子は、音や光でうかがい知るしかありません。相手を知ることはできますか?対話のテーブルにつくことはできますか?
最後の二文で問われている問いの書き方がすこし奇妙な気がする。英語の文を直訳したような、なにかが欠けているように思える。あとは、永井玲衣のような文体。と、したにいくと、「関連プログラム」のところに「哲学対話」と書いてある。
★哲学対話
展覧会で作品を見ながら思いついた「?」について、10人ほどのグループで考えたり話し合ったりする哲学対話を行います。じょうずに話せなくも大丈夫。答えのない問いを楽しむ時間です。
合点がいく。この「じょうず」を漢字じゃなくてひらがなで書いているのも永井的だといえる。しかし、私の目は哲学対話ではなく、もう一つの関連プログラムである「ドラァグクイーン・ストーリー・アワー」にいった。すごく楽しそう、と思ったのだが、説明にいろいろと納得がいかなかった。
★ドラァグクイーン・ストーリー・アワー
3歳から8歳のこどもに向けて、ドラァグクイーンが絵本の読み聞かせを行います。(ドラァグクイーンっていうのは、派手なメイクとキラキラのドレスでパフォーマンスをする人のこと)他の人たちと違っていても、ありのままの自分、自分らしい自分でいていいんだよ、と元気づけてくれます。
まず文体からして、「3歳から8歳のこどもに向けて」の説明文だと予想がつく。「というのは」ではなく「っていうのは」だったり、「いいんだよ」という口調は多少上から目線感も否めない。そして、ドラァグクイーンの説明がかっこで入る。ドラァグクイーンとは「派手なメイクとキラキラのドレスでパフォーマンスをする人のこと」とのこと。まあ間違ってはいない。しかし、これがドラァグクイーンの定義としてこどもたちに教えたいのであれば、この定義は間違っている。この定義だけではドラァグクイーンの歴史や文化がとても矮小化されてしまう(「派手なメイクとキラキラのドレスでパフォーマンスをする人」はドラァグクイーン以外にもたくさんいるから、その人たちの中で特徴づけるのがなにかを明示しないとまったくもって説明になっていない)。ドラァグクイーンの歴史について説明しても、こどもたちには理解されないだろうという認識も、彼らをナメている。
「他の人たちと違っていても、ありのままの自分、自分らしい自分でいていいんだよ、と元気づけてくれます」という部分も意味がわからない。ドラァグクイーンは異性装をしているわけだから、「ありのままの自分」ではない(ドラァグクイーンが戦略的に「ありのままの自分」ではない自分を装っていることはバトラーが言っている)。
そんなことを思ったので、とりあえず書いておく。