• 2024.5.7

    自転車で大学に向かっている途中、急にペダルが効かなくなり、最寄りの自転車屋さんに寄ろうとしたが、あいにく定休日だったので、少し歩いたところにある自転車屋に行って修理してもらう。歩いて区役所まで行って、奨学金応募用の住民票を取った後、バスで大学へと向かう。

    あまりお腹が空いていなかったので、コンビニでサンドイッチと飲み物、カットフルーツを買って研究室でいろいろ印刷したりスキャンしたりコピーをとったりする。カットフルーツは甘いのだが、安心して食べられないというか、4日も持つのはたぶん保存料が使われているんだろうな、と思いながらもそれでも食べる。

    クィア映画の授業は菅野先生が来てくださり、自転車とブラックフェミニズムについての講義は非常に刺激に満ちたものだった。授業後に挨拶したら、ぜひ研究室にいらっしゃいと言われたので、行きたいと思う。パソコンにSTOP GENOCIDEのステッカーを貼っているんですね、と京都タワーで毎週スタンディングしている人に話しかけられた。うれしい。

    夜はズームで手伝っているギャラリーの勉強会。初回だったので自己紹介と近況報告。基本的にはAさんがずっと喋っていた。それを聞いているのは楽しい。が、疲れた。

    とはいっても、最近は精神的につらい、までは行かないけど、ため息をつく日が多い。一つ一つの出来事をとってみたら、それぞれにきらめきがあるのだけど、なにかが欠けていて、それを埋めたい欲望に駆られている。それは孤独と呼べるのかもしれない。それとももっと根深いのか。夜もとくになにかをする気も起きないし、だから結局は映画をみて、時間が流れていく。京都に移ったとて、劇的に生活や私という人が変わるわけではないという単純な事実に向き合っている期間、なのかも。

    2024.5.7
  • 2024.5.6

    カフェで映画の授業の課題であるエッセイを終わらせる。18時くらいに雨が降る予報なので、その10分前にカフェを出て帰ってから続きを書く。久しぶりのゴールデンウィークだったけど、ゴールデンウィークという感じがしなかった。まあ毎日がゴールデンだから、仕方がない。

    2024.5.6
  • 2024.5.5

    カフェで作業。映画分析のアウトラインまで完成させて、奨学金の諸々、そしてパソコンの充電が切れてからはジェイムソンを読む。アイスコーヒーとたまごサンド。付け合わせのサラダが好き。緑の野菜を食べれる貴重な機会。休みだというのに、みんな勉強したり作業したりしている。

    帰って仕事をしてから、山口一郎のNHKスペシャル。うつ状態がひどくなったのが、うつ病だという構図に納得する。けっこう最近のことを話しているので、ふつうに心配になるけれども、音楽をそれでも続けたいというのは一路さんの宿命なのかも。それにしても久々にテレビを見た。

    古本市で買った飯島洋一の『現代建築・アウシュヴィッツ以後』がおもしろい。証言の不可能性、エコロジーとナチズム、庭について。

    2024.5.5
  • 2024.5.4

    monade contemporaryに寄って、Aさんと話そうかと思ったら、案の定いなかった。かわりにMさんが電話をつないでくれて、少ししゃべった。とくにすごく重要でもない話だったので、べつによかったのだが、Aさんのドジな一面を見れてよかった。リヨンの大学院に通っている人がちょうど一時帰国していて、ギャラリーにいるということを聞いていたので、その人ともしゃべった。リヨンでは19世紀末の象徴主義絵画の女性表象を研究しているらしい。19世紀末のフランスというと印象派がやはり「印象」的だけども、象徴主義というのもあるらしい。その人も将来なにになるかどうか迷っているという。ぼくもそうだ、と言ったら、話が少し噛み合った。人に興味がないらしいけど、思った以上に話は続いた。

    大阪・十三の第七藝術劇場で『悪は存在しない』と『PASSION』。『悪は存在しなし』はとにかく最初から美しく、カットやカメラワークに終始見惚れていた。ぶつ切りなカットとか人物のいない自然のみのショットとか、石橋英子の音楽とともに見せられると、妙に美しく感じる。話もユーモラスなところも多かったが、最後の2、30分くらいで事態が急変し、なんだかよくわからなかったので、もう一度みたいとなる。個人的にショッキングだったのはその直後にみた『PASSION』で、それは『親密さ』よりももっと過激なストーリーと、突拍子もなく挿入されるもはや不気味なシーン。でも、やはり相変わらず濱口にとって、どちらの作品にも共通するのは、暴力や悪というものが愛となる可能性を失いたくない、という一種の希望であり、その希望は彼にとっては男性性と離して考えることができないことだということ。『悪は存在しない』における男性性はより現代的というか、巧という妻を失った「地方」の夫(それはもちろんドライブ・マイ・カーにおける家福を彷彿とさせる)と中年独身男性で仕事に打ち込んできた「東京」の高橋の対比によって描かれる。『PASSION』では三人の男性と二(三)人の女性をめぐる「浮気」によって前景化される。それは友人も言っていたように、ホン・サンスー映画のように拗れた男性性をテーマにしていて、加害と被害の二項対立では語れないことがある、というメッセージという意味で、パク・チャヌクの復讐三部作にも似ている。濱口映画を韓国映画と比較してみれているのも、映画の授業をとっていることのひとつのかいだと思う。

    2024.5.4
  • 2024.5.3

    みやこめっせでやっている古本まつりで本を六冊購入したあと、コメダでクリームコーヒーとピザトーストを頼んで、奨学金のあれとかnoteの文章をウェブサイトに移したりとかする。帰って、来週の授業のためにホン・サンスーの『女は男の未来だ』を観て、全然共感しないと思う一方、そういう男性の加害性が自分にもあるというか、そういう意識を感じた。書くプラのレポートを書いていたら、3時半になっていた。

    2024.5.3
  • 塩田正幸「Retinagazer」展:網膜を凝視する者の絶対的内在性

    目次

    1. 時空をめぐるフィルム研究としての「Retinagazer」展
    2. カメラ・ルシダの<箱>をみること
    3. 星・網膜・靴

    2020年8月28日から9月26日までのあいだ、写真家の塩田正幸の個展「Retinagazer」が六本木のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで開催された。この個展の名前「Retinagazer」は「網膜 (retina) を凝視する者 (gazer)」を意味する塩田自身の造語であるという(注1)。「Retinagazer」展は現在という絶対的内在と向き合っている塩田を映し出し、そこに展示されている一枚一枚の写真、そしてそれに反映される彼のメソドロジーは、これまで時間という大洋に漂泊しつづけてきた塩田の足跡が鮮明に刻まれている。塩田にとって、この個展はフィルムについての彼の研究の一大成果を発表する場であり、それと同時に彼なりのトートロジカルな「内なる探求」でもある。プレスリリースにもあるように、写真家としての塩田を貫いている「目的は内なる探求である」というビジョンを体現しているのが今回の展示なのである。

    この展示が彼のフィルム研究の成果の発表の場と捉えるのはいたって容易である。なぜなら、展示会場の大部分がフィルム写真—そのなかには額縁に入れてある、ずたぼろのフィルム写真も飾られていた—で占められていたからである。そしてなによりも、この展示が「網膜を凝視する者」と題されていており、網膜というのは、目を写真機に喩えた際、フィルムの部分にあたる(網膜もフィルムも、水晶体=レンズを通された光が像として現れる平面あるいは曲面である)。つまり、「Retinagazer」というのは「フィルムを凝視する者」、すなわちフィルムを研究する写真家自身を表しているとみることができる。しかし、「網膜を凝視する者」というタイトルはそれ自体がトートロジカルである。網膜は(凝)視するために使われるものだから、(自らの)網膜で(自らの)網膜を凝視することは不可能である。そして、この絶対的に不可能なこの行為をする者は作品「Retinagazer」(2020) における白目を剥いた男(これは塩田本人の自画像のようだ)のように、網膜の中へ中へと入り込んでいく感覚に襲われる。この同語反復的な「網膜で網膜を凝視する」Retinagazerは絶対的内在の奈落へと下廻っていく。この後戻りできない探求を「目的」として、塩田は写真家としての活動を行っている。

    塩田正幸「Retinagazer」2020年

    時空をめぐるフィルム研究としての「Retinagazer」展

    フィルムというものの本質を探るとき、塩田が気にするのは時間と空間、そしてそれらが歪むことである。Retinagazerを「フィルムを凝視する者」として捉えるとき、それはフィルムで撮った写真を現像する写真家と、フィルムに現像され(プリントされ)たその写真を見る観客のいずれかと想定できる。そして、両者とも目(網膜)をつかってフィルムを視る。しかし、このフィルム研究において、より特権的な立場にいるのはフィルムに写真を現像する写真家である。写真家は観客も研究することのできる、フィルム自体の物理的可能性だけでなく、フィルムがなにを現像するかという光学的可能性をも目にすることができる。つまり、観客はフィルムの持つ空間性(フィルムの可塑性)のみを経験することができるが、写真家はフィルムの空間性だけでなくその時間性(写真がフィルムに現像されるまでのあいだ、暗室で待つ時間)をも経験する。

    写真家のみが経験することができるフィルム、あるいは写真自体の時間性という意味では、今回の「Retinagazer」展でも展示された、塩田が2012年に発表した「時間」という作品がその研究の手がかりとなるだろう。「時間」は、カメラのレンズにフレアを入れて撮影された星空の写真である。たしかに「時間」の右側には、通常の星空の写真にはみられない青いフレアが写っている。フレアは通常写真を撮影することにおいて忌避される。強い光によって写真全体のコントラストが下がり、撮りたい被写体がぼやけてしまうからだ。その一方で、写真に柔らかい印象を与えたいと写真家が考えた場合、通常は敬遠されるフレアを故意に写真の表現技法として利用することがある。しかし、この写真ではフレアが写真の光学的な技法として用いられていない。つまり、フレアは忌避されることでも表現技法として使われるのでもなく、単なるひとつの光として存在する。存在論的に写真という平面においては、複数ある星の光となんら変わりないのだ。しかし、星の光とフレアの光には時間的なずれがある。そのずれは、「フィルム」に現像されるには同じ時間がかかる光が、一方は何光年先にある光源から発されていて、もう一方は人為的に設置された、今にでも取れるような時間的距離にあるということだ。この時間のずれ=歪みはこのふたつの光が同じ写真平面にあるかぎりはいつまでたっても克服されない。

    塩田正幸「時間」2012年 / 2020年

    フィルムは塩田の手によって、時間的なずれだけでなくフィルムの可塑性が強調する空間的なずれも経験する。2018年に開催された塩田の個展「ケの日ヒョウハク2」にあわせて出版された写真集『ケの日ヒョウハク2』(2018) はその副題の通り、ヤブレ、ヒズミ、方向、の3章にわかれている。最初の章「ヤブレ」は同じ岩の写真のグラデーションを変化させたり、写真の上からマーカーペンで落書きをしたりすることによって、多種の「ヤブレ」を成している。その他にも、「Retinagazer」展では実際に破れている写真も展示された。ヤマハのスピーカーやシンバルなどを写した、額縁に飾られていた4枚の写真は、写真が現像されているフィルム自体が破れている。これらの「ヤブレ」は写真をみる私たちに少なからず「不意打ち=驚き」を与えるものである。

    塩田正幸「Retinagazer」 展示風景 タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム 2020年8月28日-9月26日 Photo: Kenji Takahashi

    ロラン・バルトは『明るい部屋』で写真が観客に与える「不意打ち=驚き la surprise」を5つに分類している。その4つ目は「技術上の曲芸」の「意図的利用」である。だがバルトはそう書いたあと、こう本音を漏らしている。
    「偉大な写真家たち … もこの種の不意打ち=驚きを活用したが、私には納得がいかない。その秩序壊乱的な効力は、私にも理解できるのだが。」(注2)

    技術上の曲芸という「不意打ち=驚き」を利用した写真の「秩序壊乱的な効力」は、塩田の「ヤブレ」た写真たちが生み出す衝撃のごとく、言わずもがな理解できるが、それよりもバルトが指摘したいのは、写真家がその「不意打ち=驚き」を意図的に利用したという事実に「納得がいかない」ということなのだ。『明るい部屋』を読み進めていくとバルトの納得のいかなさがわかると思うが、それは彼が写真の「プンクトゥム punctum」を重要視しているということに起因している。バルトによれば、プンクトゥムは写真をみている観客を「突き刺す」。そして、女性のネックレスや二人の修道女と二人の兵士が歩いている事実など、それはつねに写真の細部に宿る。その細部は観客に痛みともいえる震動を及ぼし、その衝撃波は写真全体へと行き渡る。バルトが名作と呼ぶ写真にはこのプンクトゥムが必ずどこかに含まれているのだ。ただ、塩田の「ヤブレ」た写真たちに使われている「不意打ち=驚き」がプンクトゥムと呼ばれないのは、それが意図的に使われたからである。プンクトゥムはつねに意図せずに、写真の側から表出しなければならないのだ。

    だが、はたして塩田の写真の「ヤブレ」は意図されたものなのだろうか。すぐにでも答えが出そうなこんな問いをなぜ訊き直すかといえば、それは塩田が写真を偶然性に委ねていることを私(たち)は知っているからである。『ケの日ヒョウハク2』の寄稿文に塩田はこう書いている。

    「2010 “SFACE, DNA (Dirty Npeaker All)” subject は (No Recorded, No Image, No Moment) それによって2011 “ケの日ヒョウハク” は立ち上がる。/ “写ってなくても良い” という感覚が形を成し始める。」

    現像するまでなにが現像されるかわからないフィルム写真—さらに広義に捉えれば、それをみるまでなにが記録されているかわからない写真—において、意図的に写真に写るものを加工したりすることができない、という塩田の感覚はバルトの「プンクトゥム」論と親和性が高いようにも思える。だからこそ、「ヤブレ」が意図されたものなのか、という問いは今一度深く検討してみる余地があると思う。

    先述したように、「ヤブレ」という単語は『ケの日ヒョウハク2』の章名として登場する。写真集の背表紙には、題名の英訳である「Daily Bleach 2」と載っている。つまり、意味が難解に思われる『ケの日ヒョウハク2』という題名も、何でもない日常を意味する「ケ」となにかを白くするという「漂白」があわさってできた造語である。「ケ」とはもともと民俗学者の柳田國男が提唱した、冠婚葬祭などの特別な日に行われる風習を指す「ハレ」と対になる概念である。よって、「ケ」とは本当に何もない、単なる日常を表す。そして、『ケの日ヒョウハク2』に収められている写真たちも被写体自体は何の変哲もないものばかりだ。岩、畑、ENEOSの給油機。この「ケ」という視点から見たとき、「ヤブレ」た写真たちも日常そのものを写しとったものではないのか。つまり、山は焼き払われ、岩肌を出し始め、スピーカーはギターの歪んだ音を出すように、自然がマーカーペンによって人為的に介入されたり、写真も黒く焼き焦げ落ちたり、歪んだりしている。もともと「漂白」も産業革命時のイギリスでは塩素系漂白剤が発明されるまで、布を太陽光を用いて漂白したと言われている(注3)。白飛びした写真も太陽光がそれを「漂白」したと捉えれば、単なる日常で起こることである。もし「ヤブレ」た写真たちが「ケ」という日常をそのまま切り取っているのであれば、その「ヤブレ」は意図して利用したというより、「ヤブレ」そのものが日常に内包されているということだ。

    柳田が提唱した「ハレ」と「ケ」の概念関係には「ケガレ」という概念を付け加えるべきである、とする人たちもいるらしい。「ケガレ」というのは単なる「汚れ」という意味というより、「ケ」のエネルギーが枯れた状態を意味するらしい。すなわち、「ケ」という日常を営むのに必要なエネルギーもないようすを指している。「Retinagazer」展の写真をみた私の最初の感想は、この写真家はなんて雑多で汚いものを写真にしているのだろう、というものだった。展示で最初に目に映るのは、スタジオの床に落ちているアヒルの口を象った玩具、狭い部屋でプリンスのレコードを持って床に座る、ジャージを着た小太りで丸メガネの男、紙くずに溢れた路上の赤いゴミ箱。しかし、それらは「ケガレ」にあてはまるような写真ではなかった。何らかのエネルギーを持っていた。そのエネルギーは、たぶんあひるの口の玩具を演奏に使うのであろうバンドメンバーたちのちょっとした会話、プリンスファンの男の満面の笑み、翌朝ゴミを回収しにくる収集車の運転手を想像すると出てくるある種の人間味であり、日常のなかにあるちょっとしたきらめきである。頭に浮かぶのは、ウィーン出身のアメリカの写真家であったリゼット・モデル(Lisette Model)の写真である。リゼット・モデルはストリートに溢れる「醜いもの」にカメラのレンズを向けた。前屈みで波打ち際に立ったり寝そべったりする、太った水着の女 (Coney Island Bather, New York, 1939)やニューヨークの路上で歌う二人の男の二/三重顎 (Sammy’s Bar, New York (Two male singers), 1940-44)、マイクの前で口を大きく開き歌う、髪の逆立った女 (Singer at Café Metropole, 1946) は「醜いもの」をフィーチャーした写真の例である。そういう意味で、彼女のラストネーム「モデル Model」は社会に対する皮肉である。つまり、ファッションモデルや模範とされる人々が極端に平均から外れたものを持っていたり、非日常を体現していたりすることが当たり前となっている社会に対して、モデルはその既成概念を転覆させようとその逆を撮影しつづけた。そして、それは日常に存在する小さい喜びやユーモラスな瞬間を映し出し、観客にもそういった感情を喚起させることに成功した。

    Lisette Model, Coney Island Bather, 1939

    モデルは1933年(注4)まで写真や美術ではなく音楽を勉強しており、シェーンベルクのもとで勉強していた時期もあったという。さらに、シェーンベルクからのつながりでクリムトなどのウィーン分離派の表現主義的な芸術にも興味を持っていたらしい。そういう意味でも、彼女は若い頃からウィーンの19世紀末を代表する前衛的な芸術に影響を受けていたことがわかる。そして、モデルが写真家として高い評価を受けた1940年代は第二次世界大戦の前後でもある。ウィーン出身で1924年にパリに移り住んだ彼女にとって当時もっとも頭を悩ませていたのは、西欧におけるファシズムと反ユダヤ主義の台頭であろう。モデル自身はユダヤ教ではなくカトリックを信仰していたらしいが、彼女の父はユダヤ系、彼女の夫で画家のエブサ・モデル (Evsa Model) はユダヤ人であった。1938年、モデル夫妻は当時ヨーロッパに住む多くのユダヤ系知識人のように渡米するわけだが、その年にはオーストリアがドイツ帝国に併合される(注5)。

    このようにモデルは当時のヨーロッパの政治的情勢に左右されながら、自分の住んでいる場所を移し、自分の関心もその土地で出会う人々の強い影響力によって移ろいでいった。塩田も音楽と写真という関心を股にかけ、それぞれを移ろうなかで、「ヒョウハク=漂泊」を経験する。モデルも塩田も浮浪者なのである。そして、そのように時間と空間をさすらい歩き、あるいはさまよう二人は共通して「ケの日」に着目する。「ケの日」、つまり「日常の日」はそのトートロジー性からわかるように極端な日常の凡庸さを志向する。それはアーレントがアイヒマンに見出した「悪の凡庸さ banality of evil」とは一線を画している。モデルと塩田の凡庸さはその指向性が絶対的内在へと向かっている。その凡庸さは我々の感覚とはずれているのかもしれない。しかし、その時間的で空間的なずれ=歪み=ヤブレがプンクトゥムとして我々の既成的な感覚に棘を突き刺してくるのは間違いない。

    カメラ・ルシダの<箱>をみること

    「目的は内なる探求である。」
    これは先ほども言ったように、塩田が『ケの日ヒョウハク2』の寄稿文に書いた、彼の写真家としてのビジョンである。この宣言は二つの読み方ができると思う。一つは、彼の写真活動の目的が内なる探求であるということ。二つ目は、「目的」という言葉の意味が「内なる探求」である、という読み方だ。一つ目の読み方はたいそうおもしろくない、というのも、彼の写真活動が写真家としての自分自身を探求するためにやっているのであれば、それはあまたいる他の写真家とあまり違うことがない。反面、二つ目の読み方は塩田の徹底した内在への姿勢を明らかにする。「目的」という言葉が「内なる探求」を意味するとき、つねに外在的ななにかを措定しようとする目的論がそれ自身で矛盾を引き起こす。それは自分の網膜を凝視する (Retinagaze) ほど不可能なことで、それは「目的 aim」=視線の方向という言葉が端的に示している。網膜を網膜で凝視することのトートロジー性。内へ内へと入り込んでいくこと。だが、少なくとも目はそういう構造にはなっていない。目はつねに外在的なのである。

    目の構造はよくカメラのレンズに例えられる(そして、逆も然り)。このときのカメラは正確を期して言えば、それはカメラ・オブスクラ (camera obscura) である。ピンホールまたはレンズのついた箱の内側に像を写すカメラ・オブスクラ(と像を手で描き写す写真家)の構造は、レンズ(=水晶体)のついた目という箱の内側(=網膜)に写った像を脳が視覚細胞を通じて「描き写す」ことと似ている。このとき、像は外部に投影される。カメラ・オブスクラの場合、像は箱の内側に写るので、実質的には当の写真家だけでなく、他の人も同時にその写像を見ることができる。目も同様で、像は網膜という曲面に写っているので、複数の視神経が同時に信号に変換された像を「視る」ことができる。つまり、複数のものが同じ像を同時にみることができる意味で、カメラ・オブスクラと目は構造上、写像を外在的に行う。

    現在のカメラの原型になったのはカメラ・オブスクラと言われているが、写真史のなかでもその型を見捨てられたのがカメラ・ルシダ (camera lucida) という写真機の型である。前川修によれば、カメラ・ルシダとは「写生の際、柄についた光を屈折させるプリズムを覗くと、目の前の光景が見えると同時に手元の白い紙も見える。こうしてスケッチをする者が網膜上で両者を重ね合わせつつ光景をなぞることができる」といった仕組みのカメラである(注6)。つまり、トレーシングペーパーを使って絵を写すように、写真家はプリズム(もっと簡素なカメラ・ルシダだと鏡)から目に映る像を紙に合わせて、その像を描くわけだ。前川が指摘するように、カメラ・ルシダは像を描き写している人にしか見えない。なぜなら、像は外部に写っていないからだ。像は写真家の目にしか写らない。カメラ・ルシダが実現する内在性は、「網膜で網膜を凝視する」ような状況を作り出している。カメラ・オブスクラ=目では、像は箱の内側=網膜に写って、そこから写真家の目の網膜に写るわけだが、カメラ・ルシダはそれとは違い、像が直接写真家の網膜に写ってくる。つまり、目の網膜がカメラ・オブスクラでいう網膜になっている。そのとき、写真家は彼.女の網膜で網膜(に写った像)を見ている。だが、塩田はカメラ・ルシダで写真を撮ってはいない。さらに言えば、カメラ・オブスクラの構造を踏襲したフィルムあるいはデジダルカメラで写真を撮っている。すなわち、彼は自分の網膜で網膜を見て写真を撮っていない。そのような観点でみたとき、彼は Retinagazer ではない。彼は他の写真家同様、カメラという箱の内側をみて、シャッターを切っている。では、誰が Retinagazerなのか。カメラ・オブスクラにはあって、カメラ・ルシダにはない「箱」からその正体を探っていきたい。

    箱を見ることとは、箱の中を見ることである。元来、箱というものは、箱自体というより箱の中身が問題になる。宝箱、お賽銭箱、弁当箱。箱があれば、その中身が気になるものだ。「Retinagazer」展で塩田が展示した写真にも箱は写っている。ENEOSの給油機、白い棚の上に乗った白いタンクのような箱、そして路上に置かれた赤いゴミ箱。ENEOSの給油機の写真は『ケの日ヒョウハク2』にも載っているのでみてみると、給油機には白く太い文字で「ENEOS」や「軽油」と書いてあり、それは全体的に暗い写真との対比によってさらに際立っている。給油機自体は古く、もう使われていないようだ。給油機にはロープや破れたブルーシートが巻かれていて、給油機はもう動かないにもかかわらず、それはいかにも給油機の使用禁止を要請しているようだ。この過剰な給油機の縛りつけはENEOSという資本主義的な記号までもを抑えつけることはできないが、すくなくとも誰にも給油機の中を知ることができない。大きくて白い棚とタンクのような箱を写した写真も、その箱が結局何なのか、というよりそれに何が入っているのかが気になってしまうが、箱が何の箱かがわからないということは、その箱の中身もわからないということだ。

    Keiichiro Kawabe 川辺 圭一郎インスタグラムより

    ENEOSの給油機と白い棚とタンクのような箱の写真における箱はもう誰の目にも触れられないという意味で、それを写真として残しておくことは、今後多くの人がそれを見ることになるわけだから、そういう面ではこういった箱にも視線が浴びせられる。ただ、私たちはそれらの箱への侵食を防がれている。この二つの箱は頑丈に守られ、秘匿されている。それは私たちの箱の中身を知りたいという欲望を堰き止めている。同様にカメラ・オブスクラという箱もその内側に像に写るので、その中を見ること(「中見(なかみ)」)が必要になる。しかし、当然カメラ・オブスクラは写真機なので、写真家がピンホールあるいはレンズによって箱の内側の像を容易に見ることができるようになっている。その反面、観客はENEOSの給油機と白い棚とタンクのような箱の中身を見ることはできない。箱というものの性質上、観客の「目的」はいまや箱の「内なる探求」となっているわけだ。

    他方で、路上に放置されている赤いゴミ箱の写真の中身に私たちは興味をそそられることはない。第一、すでにゴミ箱の中身の一部は溢れてしまい、こぼれそうになっているので、それが「DOGOO HAIR」(注7)のようにくるくる巻きの紙くずらしきものだと見てわかる。そして、第二にゴミ箱はゴミが入っていて、それは汚いものなので、中身が気になることはない。したがって、観客の欲望はゴミ箱の中身の探究へとは向かない。かわりに、彼らの欲望は写真上部の白い長方形へと移される。ゴミ箱の写真の上部にあるその白い長方形は、路上にあるゴミ箱のみを被写体として絞り込み、道路上にいるかもしれない人や車を「検閲」している。その長方形はENEOSの給油機と白い棚とタンクのような箱の秘匿性を共有してはおらず、ただ単純に想像上/実在上の人や車を「抹消」している。すなわち、あの白い長方形はゴミ箱に観客のフォーカスを移すということでしかその役割を果たしていない。視線をゴミ箱に移された私たち観客は否応なくゴミ箱を、そしてゴミ箱の中身を凝視しなければならない。そして、ゴミ箱から滲み出てくる汚れと臭いに耐えられなくなり、写真から目を離したその瞬間、はじめてゴミ箱というものの特殊性—「中身が気になる」という<箱>の性質をもっていないこと—が前景化される。ここで、新たな次元での観客の「内なる探求」が始まる。つまりその探究は、私たちがゴミ箱という、「ヤブレ」ていて「醜いもの」から目をそらしてしまうことがどういうことを意味しているのかを内省することである。そして、それはENEOSの給油機と白い棚とタンクのような箱の写真が<箱>という同一性を持って比較対象として展示されているからこそ、それらの箱とゴミ箱の差異が強調されるのである。

    このとき、塩田の箱の写真たちは観客にとってのカメラ・ルシダとして機能することとなる。カメラ・ルシダはカメラ・オブスクラと違って箱がないので、カメラ・ルシダを覗く人に像は直接網膜に入ってきてしまう。ゴミ箱にも<箱>はないが、観客はあの白い長方形によって実際のゴミ箱の箱を見ざるを得ない。ゴミ箱の中が観客の網膜に入り込んでくる。つまり、塩田は観客を Retinagazer(網膜で網膜を凝視するもの) に仕立て上げることで、目の前の状況を凝視/直視するようにある種強制している。そして、その目の前の状況というのは<箱>の同一性から外れた差異、「ヤブレ」、そして「醜いもの」である。

    星・網膜・靴

    私が「Retinagazer」展をのぞいている際、ちょうど塩田本人が母と思われる人物と展示を鑑賞していた。本人にきいてみるに、「Retinagazer」は「Shoegazer」と「Stargazer」の真ん中に位置するものだという。「Shoegazer シューゲイザー」とはギターのエフェクターを多用する音楽の一ジャンルらしい。もともとシューゲイザーは「靴を凝視する者」という意味で、床に置いてあるエフェクターのペダルを頻繁に見るシューゲイザーの演奏者がその名前を体現する。塩田自身、音楽好きでバンドをやっている/たこともあって—事実、音楽やバンドにまつわる様々な写真が「Retinagazer」展では展示されていた—、シューゲイザーという言葉が出てきたというのだ。一方、「Stargazer スターゲイザー」というのも存在していて、これは「星を凝視する者」を意味する。星を観察することを職業とする天文学者や占星術師がこれにあたる。結局、シューゲイザーは下を見つめて、スターゲイザーは上を見つめるということである。そうすると、その真ん中に位置する「Retinagazer」は上でもなく下でもなく、それこそ文字通り「真ん中」を見つめる者だということとなる(図1)。

    図1

    塩田 図1

    しかし、「真ん中」を見つめるということはどういう状態なのだろうか。「Retinagazer」を挟んでいる「Shoegazer」と「Stargazer」について少し深く検討すれば、次第に「真ん中」という値が一意に定まってくるのではないかという感覚もあり、それぞれを調べていくことにしよう。まず、「Shoegazer」は先述したようにギターの音をその場で加工するために用いられるエフェクターというペダルを足で操作することが多いミュージシャンたちによって演奏される音楽である。シューゲイザーの特長については黒田隆憲の言葉を借りれば、それは「エフェクターによって極端に歪ませたギターやフィードバック・ノイズを、ポップで甘いメロディーに重ねた浮遊感のあるサウンド」が特徴の音楽である(注8)。ここで黒田が「フィードバック・ノイズ」という言葉を使ってシューゲイザー音楽を説明していることに注目したい。フィードバック・ノイズは、スピーカーから出た演奏の音がギターのボディと共振し、それが再度アンプを通し、ノイズとしてスピーカーから出るものだ。このフィードバックループが途切れない限り、このノイズは続く。それは過去に演奏した音がアンプ、スピーカーを通して、現在へと戻されていくようなものだ。そして、その現在の音はまた過去となって、それが時間的に持続していく。過去の時間の永続、支配が音楽に「浮遊感のあるサウンド」を提供し、それがファンを魅了し続けるのかもしれない。そして、過去がその時間を支配する「Shoegazer」の彼岸にいるのは、無数の星たちを見上げ続ける「Stargazer」である。職業として天文学者や占星術師を名乗る彼.女らは未来のことを考えたり、知ろうとしたりする者である。天文学者は惑星の軌道や恒星の場所を特定したりして、それらの研究は将来の宇宙の様子を予測するために使われる。占星術師は月や太陽、惑星の位置や動きで人の将来を予測する。

    「Shoegazer」が過去、「Stargazer」が未来という時間軸によって構成されているとすれば、その二つに挟まれている「Retinagazer」は過去と未来の狭間である現在に位置付けられるのではないか(図2)。

    図2

    塩田 図2


    この時間論を受け入れるならば、『ケの日ヒョウハク2』の塩田の寄稿文にも納得がいくだろう。

    「今回の subject “ヤブレとヒズミと方向” は製作するプロセス (2012-2015) の中で “現在(ヤブレ)、過去(ヒズミ)、未来(方向)” を再認識する事になった。」

    歪(ひず)んだギターの音が特徴的な「Shoegazer」が「過去(ヒズミ)」と一致しているのは辻褄が合うだろう。そのギターの音が過去として発される、通常の演奏では望まれないフィードバック・「ノイズ」は、先述した写真におけるフレアと同様に一種の演奏技法として使われる。フィードバック・ノイズの歪(ひず)みとフレアが起こす時間の歪(ゆが)みは、実は塩田やモデルが「ヤブレ」や「醜いもの」を通じて思考/志向した逆張りの論理を共有しているのだ。ここで、過去のゆがみと未来のひずみは「ヤブレ」という現在に収束するのである(図3)。

    図3

    塩田 図3

    先述したように、塩田はリゼット・モデルのように究極まで「凡庸さ」を突き詰めようとしている。そのとき、ゆがんだり、ひずんだりする前の、ものの「正しい」あり方がはたして「凡庸」なのか、という問いが出てくる。その問いに立ち向かおうと塩田は差異と同一性を用いて、観客に現前している差異を見つめるように強いる。このとき、観客がカメラ・ルシダを通して凝視しているのは現在という絶対的内在の時間である。ドゥルーズの『意味の論理学』によれば、過去と未来は無限の同一性を持っている点においては共通しており、それらは図2の横軸の矢印のように、過去と未来の両方向に永遠に伸びていくのである。過去や未来といった時間は永遠の時間として捉えられるので、それらは厚みがある。しかし、他方でその過去と未来のつなぎ目である「厚みのない現在」を希求するのは相当に困難なことである。鹿野祐嗣が指摘するように、現在は「純粋なポテンシャルであるがゆえに、その瞬間とは理念的(idéel)なものであって、それ自身がまた絶えず過去と未来の両方向へと無限に分割されていくのである」(注9)。よって、厚みのない現在は「理念的」、うわべのものであり、つかみどころがない。ドゥルーズはそのような「厚みのなさ」を「表面 la surface」と表現する。過去と未来とが収束した先にある表面的な、徹底した現在の内在性。

    『ケの日ヒョウハク2』の「ヤブレ」の章にある16枚の岩の写真は、同じ岩を写しているにもかかわらず、それぞれ異なる姿を見せている。それらの差異は様々な「ヒョウハク bleach」の方法(マーカーペンや太陽光の過剰な露出)によって作り出され、その差異は同じ岩を写しているからこそ前景化されるものだ。塩田がこのような差異と同一性の利用によって観客に価値観の転覆を促したことはすでに論じたことだが、この岩の写真の連続体もその差異と同一性によって観客になにかしらの「内なる探求」を要請する。そのとき、俎上に乗るのは、観客の過去の経験である。観客の過去の経験が同一性を措定してしまい、岩の写真の一枚一枚の写真の差異に気づかない。だからこそ、ドゥルーズが言うように現在に反復された過去の経験から脱出し、改めて現在を見つめ直さないといけない。塩田はそれをフィルムという表面でやってのける。そのとき、変化(それは「ヤブレ」であり「ヒズミ」であり、「ゆがみ」なのである)を要求されるのは私たちなのだ。

    塩田正幸、「DAILY BLEACH / YABURE」、 2014年

    注1:「塩田正幸「Retinagazer」」、タカ・イシイギャラリー、https://www.takaishiigallery.com/jp/archives/23401/.
    注2:ロラン・バルト、『明るい部屋 写真についての覚書』、花輪光訳、みすず書房、1997年、p. 48。
    注3:太陽光の紫外線に漂白作用があると言う。詳しくは、ブリーチフィールド bleachfield を参照のこと。
    注4:ちなみに1933年はドイツ帝国における総統としてのヒトラーの地位を築いた全権委任法の成立年でもあり、シェーンベルクがユダヤ教に改宗した年でもある。
    注5:反ユダヤ主義がモデルに与えた影響については、Karen Kedmey, “The Pioneering Street Photographer Who Taught Diane Arbus,” Artsy, 2018/1/16, https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-pioneering-street-photographer-taught-diane-arbus.
    注6:前川修、『イメージを逆撫でする:写真論講義 理論編』、東京大学出版会、2019年、p. 239。
    注7:2006年に行われた五木田智央とのグループ展「LUMEN#01 -GREY SCALE/Tomoo Gokita | DOGOO HAIR /Masayuki Shioda」における塩田の展示のタイトル。のちに同名の写真集が刊行される。「DOGOO HAIR」とは「犬の髪の毛」という意味で、「Retinagazer」展でも「DOGOO HAIR」と書いてある、切られた木の枝が積まれたモノクロ写真が展示されていた。
    注8:黒田隆憲、「シューゲイザーとは何だったのか? マイブラ、ライド、スロウダイヴなど象徴的バンドから学ぶ、耽美な音世界が生まれた背景」、Mikiki、2017/4/20、https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/13917
    注9:鹿野祐嗣、「ドゥルーズ『意味の論理学』における出来事の形而上学と命題論理学の関係についての考察」、『早稲田大学大学院文学研究科紀要』、第3分冊、2014年、p. 146。

    塩田正幸「Retinagazer」展:網膜を凝視する者の絶対的内在性
  • プロセスに巻き込まれるということ:幸田千依「今、絵のまえで会いましょう」のなかから

    2023年7月15日まで、東京・代官山のLOKO GALLERYで開催されている画家・幸田千依の公開制作「今、絵のまえで会いましょう」では、「公開制作」の名の通り、幸田が一枚の静物画を制作する過程を公開している。幸田はこれまでも美術館やギャラリーで公開制作という形で絵画を描いている様子を一般に公開してきたものの、東京のアートギャラリーで公開制作を実施するのは初めてだという。

    ギャラリーでまず目がいくのは幸田でも幸田の描いている絵でもなく、幸田が絵を描いている横に置いてあるテーブルと座布団だ。私はそれらを美術作品の一部だと思い込み、座布団に座らずに幸田の後ろに立ち、制作の様子を静かに眺めていた。すると幸田は私の気配を感じ取り、座ってくつろいでくださいと勧めてくれたので、座布団に座ることにした。テーブルには幸田の私物だと思われる漫画『ハウルの動く城』やワンカップでつくられたペン立て、ラジオなどが無造作に置かれていた。まるで幸田の家におじゃましているような違和感は、幸田が絵を描いているところを眺めているうちに消え去っていた。私は作品に巻き込まれたのだ。これまで私はさまざまな美術館やギャラリーを訪れてきたが、どの空間にも作品の作者がいないし、作品と私とのあいだには明確な距離が存在した。その距離とはガラス板で隔たれているという物理的な距離だけでなく、「私は作品を鑑賞している」という距離感だ。その反面、この公開制作ではもちろん作品に触ることはできないものの、画家の空間に招かれている感覚を得ることで、作品との距離感が限りなく近づくような気がした。それは芸術作品の見方を根本から変えるものだった。

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    この公開制作では、鑑賞者である私だけが公開制作に巻き込まれているのではなく、幸田自身も巻き込まれている。幸田の制作する絵の主題であるオーストラリアの国旗やプロペラ機の模型などの静物は、ギャラリーに併設するカフェのスタッフらが持ち寄ったものらしい。しかも、それらのアイテムは各々スタッフが置いたもので、幸田は静物の配置にかかわっていない。幸田はそのように他者に作品の題材を決めてもらったほうが描きやすいと言う。画家の思想やスタイルが色濃く出やすいとされる静物画の題材を他者に委ねるとい う受動的な姿勢は、画家としての信念が欠如しているようにも感じる。だが、他者が自分と 同じ空間にいるほうが絵が描けると言う幸田にとって、信念は他者を通して形成されてい く。制作のプロセスの一部を他者に委ねるという行為は、アーティストが鑑賞者から独立した存在であるという前提を退ける試みだ。

    鑑賞者がアーティストに巻き込まれ、アーティストが鑑賞者という他者に巻き込まれるとき、はじめて鑑賞者とアーティストとのあいだに新たな関係が生まれる。その新たな関係はアーティストが鑑賞者を客として歓待し、鑑賞者がそれを受け取るという贈与のプロセスである。近年、アートと社会を接続する概念として注目されているソーシャリー・エンゲイジド・アートでは、完成された芸術作品を通じて人々が出会いつながることが目指される。それとは異なるしかたで、幸田は鑑賞者との出会いを通じて絵じたいもが変化していく相互的なプロセスを「今、絵のまえで会いましょう」という公開制作に投影する。 幸田も私たち鑑賞者もまだどのような作品が完成するかはわからない。しかし、私たちがわかるのは私たちはこの作品に否が応にも巻き込まれているということだ。そして、ギャラリーに置かれている静物たちが梅雨の季節に時たま現れる日差しに巻き込まれているということも。

    幸田千依「今、絵のまえで会いましょう」(公開制作)
    会期:2023年5月10日~7月15日
    会場:LOKO GALLERY(東京・代官山)
    開館時間:11:00~19:00
    休館日:月、火、祝 
    ※作家在廊日のみオープン。詳細日程は公式ホームページにて要確認。

    プロセスに巻き込まれるということ:幸田千依「今、絵のまえで会いましょう」のなかから
  • 「労働」という欲望の適切な保存にむけて:石川祐太郎×Josh Kline “クロスレビュー”

    ※本来、「クロスレビュー」とは複数の人間があるひとつの物事に対して評価を下すことを指すが、わたしはひとりの人間が複数の物事に対して同時に評価を下すことだと思っていたので、その定義のままこの語を用いる。

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    2023年6月5日に石川祐太郎のインスタグラム(@yutaroishi)に投稿された動画の一コマ

    2023年6月5日、アーティストの石川祐太郎はロッカーに黒いスプレーペイントで「DON’T LIE」と書く様子を収めた動画を自身のインスタグラムで公開した。そんな石川は、現在代官山のギャラリー・LAID BUGで個展「Punch-Drunk」を6月10日まで開いている。地下1階にある小さなホワイトキューブには日本の過重労働をテーマにした石川の作品が展示されている。「DON’T LIE」という挑発的なメッセージが書かれているロッカーはもともと展示されている作品の一部で、その作品ではロッカーからワックスで固められた無数のワイシャツが溢れ出ている。ロッカーの正面には石川の幼少期の頃の写真が貼られ、その写真がどこか奇妙な雰囲気を放っている。そんなロッカーの側面に書かれた「DON’T LIE」というグラフィティも奇妙な雰囲気を醸し出している。というのも、この「嘘をつくな」というメッセージが誰に向けられたものなのか、「嘘」がなんのことを指しているのか、はっきりしない。この謎をすこしでも解き明かすためには石川の個展の全貌をみていく必要がある。

    石川祐太郎、「Punch-Drunk」

    ギャラリーには四つの作品が展示されていて、その一つが先ほどのロッカーの作品だ。ロッカーの左横にはベンチが置いてあって、ロッカーとベンチがひとつの作品をなしている。二つ目の作品はワックスで固められた無数の白い靴下の直方体で、その下には藁が敷かれている。三つ目はサンドバッグの作品で、破れたサンドバッグからはこれもワックスで固められた無数のワイシャツやネクタイがあたかも落ち出てくるようにみえる。最後は、蛇口と水道管が外れた洗面器の上にワックスでつくられたマウスピースが置いてある。これらの作品を俯瞰すると浮かび上がってくるのは、ギャラリーに擬態したボクシングジムだ。サンドバッグの作品のすぐ横の壁には鏡が貼ってあったり、ボクシング選手が試合をするときにつけるマウスピースが作品のモチーフとして使われていたりする。ただ、サンドバッグは下半分が破れているうえに、マウスピースはワックスでつくられていてバラバラになっているものもあるから、さびれたボクシングジムといったほうが正確だろう。

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    ギャラリースタッフの話によれば、石川はビジネスコンサルタントとして働きながら、ボクシングジムにも通ってるという。そんな二足のわらじを履く石川は、ワイシャツやネクタイといった衣服とワックスを組み合わせて、ギャラリーという名のボクシングジムを構築する。そのとき、彼の会社員としてのアイデンティティとボクサーとしてのアイデンティティは交差する。個展の名前が示すように、ボクシングの「パンチ」と会社でのパワハラ、パンチを受けて頭がぼんやりする「ドランク」状態と会社の飲み会でのアルハラが重ね合わされている。ボクシングで用いるサンドバッグやロッカーから、会社員を象徴するワイシャツとネクタイが飛び出してくるさまは、まるでボクシングジムで仕事のストレスを発散する石川、そしてストレスを抱える会社員のようだ。

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    注目しないといけないのは、作品が表象するテーマだけではなく作品そのもの、あるいは表面である。つまり、アーティストとしての石川のアイデンティティ、三足目のわらじをもちろん考慮に入れなければならない。コペンハーゲンのファッションブランドが主催するアートコンテストで作品が選出された石川にとって、衣服は彼の作品における重要なマテリアルだ。そして、その衣服を固めるワックス。ワックスで固定化された衣服を近くで観察すると、まるで冷凍保存されているかのようにパリパリとした感触がして、表面は削った白いワックスでざらついている。石川がこのように衣服をワックスで固めた作品を「彫刻」と呼ぶように、彼はマテリアルを削ることでなにかを掘り出そうとする。それは「におい」だ。

    石川が先述したアートコンテストで作品が選出されたときのコンテストのテーマは「衣服とにおい」である。アロマキャンドルがにおいを閉じこめるように、着た人のにおいが残る服も同じように保存できないか。会社終わりに満員電車に乗ったあととボクシングジムでスパーリングしたあとの汗臭さ、すぐに汚くなる白い靴下、タバコの臭いが染みついたワイシャツ、棚の奥にしまってあるネクタイ。石川にとってワックスとは衣服と強く関連するにおいを保存するために必要なメディウムなのだ。

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    石川祐太郎、Briefs

    Josh Kline, Project for a New American Century

    アメリカの現代アーティストであるJosh Kline(ジョッシュ・クライン)は、石川祐太郎と同じように労働を主題に作品を制作している。現在、ニューヨークのホイットニー美術館で開催されている展覧会「Project for a New American Century」では彼がこれまでに制作した作品群に加え、気候危機をテーマに新たに制作した「Personal Responsibility(自己責任)」というシリーズを発表している。

    Klineが着目するのはアメリカにおける労働の格差である。「Class Division(階級格差)」という作品群に収録されている2017年の作品「Lies(嘘)」では、半分に切断されたhpのパソコンとアップルのMac Bookがアメリカ国旗の模様をしたテープで留めてある。作品をみるとわかるように、hpのパソコンは汚れや傷が目立つ一方、Mac Bookは切断されているものの状態はきれいだ。アメリカにおけるパソコンのパイオニアともいえるhpのヒューレット・パッカードと、アップルという新参者による競争と後者の追い越しはITテクノロジーにおける後者の台頭を物語ると同時に、そこから排他されるほかのアメリカ企業とその労働者がみてとれる。

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    Josh Kline, Lies (2017)

    作品群「Class Division」の、同じような形式をとる他の作品(折りたたみ式携帯とiPhone、新旧のミキサー、ガスコンロと電熱線コンロ)もそれぞれ「Alternative Facts(オルタナティブ・ファクト)」、「Make-Believe(見せかけ)」、「Fake News(フェイクニュース)」と名づけられているように、Klineにとって階級格差と嘘は緻密に関連している。階級という分断が、パソコンやスマートフォンを通じて発信される「嘘」や「オルタナティブファクト」、「フェイクニュース」など政治を分断している「嘘」でもある。それはトランプが白人労働者の支持基盤を持って2016年の大統領選に勝利したときに発覚した、共和党員と民主党員で信じている事実がまったく異なっていたという衝撃の「事実」でもある。

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    Josh Kline, Make-Believe (2017)

    Klineの展覧会が「新しいアメリカの世紀のためのプロジェクト」という名前である通り、彼は自身の作品を通じて「新しいアメリカ」を想像しようとする。その前提としてKlineは「今のアメリカ」をまずは適切に保存することが必要だと考える。彼の作品は「新しいアメリカ」を想像するプロジェクトであるまえに、「欲望、倫理、脆弱性、そしてそれらがつくられた時代を保存するプロジェクト」だ。 

    そんな彼の作品に通底するのは箱やショッピングカートなどの「容器」である。「容器」は作品がつくられたときの「欲望、倫理、脆弱性」を保存する。Klineの代表作ともいえる「オーバータイム・ドリップ(Overtime Drip)」は点滴バッグに褐色の液体が入っている。その褐色の液体は点滴バッグに表記されているように、エスプレッソ、アデロール(ADHD治療薬)、デオドラント、レッドブル、リタリン(ADHD治療薬)、プリンターのインク、ビタミンC、歯磨き粉で構成されている。「オーバータイム(時間外労働)」が表しているように、液体に入っている多くの成分は残業を助けてくれるカフェインや集中力を上げるADHD治療薬など、人間を労働の道具として高めてくれるものだ。それらが点滴バッグという、一瞬で病室を思い浮かべることのできるシンボルに入っているとなると、過労による疲れを休めてくれるはずの病院が、労働力を再生産する機構へと変化する。現代社会における過労の問題を欲望という問題意識に切り替え、その欲望を駆動する装置を点滴バッグという「容器」に閉じ込める。

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    Josh Kline, Overtime Drip (2013/2023)

    石川祐太郎にとってワックスとは、Klineにとっての「容器」のようなものだ。衣服のにおいを保存するためにワックスで固められた布たちのにおいを鑑賞者はにおうことはできない。しかし、たしかにそこにはそのときのにおいが閉じ込められている。ワックスという「容器」はアロマキャンドルのように癒しを与えるという意味で、Klineの作品における点滴バッグに似ているのかもしれない。だが考えてみれば、どうして石川は労働やボクシングジムの汗臭さ、飲み会のあとの酒臭さ、パンチされたあとの血のにおい、タバコ臭さを閉じ込めたいと思うのか。石川はこのような不快なにおいを保存しようとするとき、ほんとうはなにを保存したいのだろう。

    いや視座を変えれば、不快なにおいを保存したいという欲望はある種のフェティッシュである。わたしたちはそれを表立って欲望することはないが、だれにもみられないように欲望する。「DON’T LIE」はそんなわたしたちの偏った欲望に対する呼びかけのように聞こえる。それはいわゆる「不快なにおい」へのフェティッシュを隠そうとするわたしたちの嘘=秘密を暴くものであり、同時にわたしたちの「労働」へのマゾヒスティックな欲望を映し出すものでもある。そのマゾヒスティックな欲望というのは、職場におけるあらゆる暴力やハラスメントを肯定するものではないが、それでも暴力やハラスメントを許容している日本の労働環境にみずから身を投じてしまう人たちの欲望でもある。それは石川自身も認識しているジレンマだ。会社員として働き、ボクシングジムにも通う彼は、一方では会社でのストレスをボクシングで発散しているが、他方ではボクシングという自分を追い込む行為と労働を等価なものとしてとらえる。それは労働によって自分を追い込むという、死と隣り合わせの行為でもある。

    Klineの「Lies」が表現するような階級格差のまえでも、わたしたちはそのような労働を欲望するマゾヒストたちを批判することができるのか。そのとき石川は投げかける、「DON’T LIE」と。われわれ労働者は労働を欲望することの危険性を認識しながらも、それでも労働をしているのだ、と。そのとき、「嘘をつくな」というメッセージは労働を欲望することにシニカルな態度をとるわたしたちに突きつけられる。

    ボクシングジムのロッカーに「嘘をつくな」と描くことによって、そのメッセージはボクシングをするその人自身にも向けられる。ボクシングジムという極限まで自分を「追い込む」というマゾヒスティックな空間で、「嘘をつくな」というメッセージはより自分に突き刺さる。自分の欲望に嘘をつくな。そこからわたしたちは日本における過重労働に対する抵抗運動を始めなければならない。「Twin Uniform Shirts」という赤と白のジャンパーがワックスで固められた石川の作品が、ワックスという無機質なマテリアルで固められたにもかかわらず冷凍された肉のような表面をしていることが表すように、衣服はわたしたちの肉体でもある。ワイシャツとネクタイという衣服は労働者の肉体であるからこそ、そこに染みついているにおいとともに、社会に叫ばなければならない。「嘘をつくな」、と。

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    石川祐太郎、Twin Uniform Shirts (2022)
    「労働」という欲望の適切な保存にむけて:石川祐太郎×Josh Kline “クロスレビュー”
  • 印象派=モノマネ芸人としての丹羽良徳:退屈なイデオロギーの退屈な模倣

    アーティストの丹羽良徳の『水たまりAを水たまりBに移しかえる (2012)』では、その作品名が明示するように丹羽自身が東京・新宿の水たまりの水を福島県双葉郡楢葉町に運搬し、そこに新たな水たまりをつくる様子をうつした映像が流される。上下2画面で映像が再生されるこの作品では、同じ映像が異なるタイミングで再生されている。上画面では、丹羽が新宿にある水たまりの水を口移しでポリタンクへと入れ、下画面では丹羽が電車で水の入ったポリタンクを楢葉町に運び、その水を道端に放出する。実際、この2つの動きは連続して行われているものの、それを2画面で、異なる時間軸で再生することによって異なる水の運搬が同時に起こっている。上画面では新宿の水たまりから丹羽の口への水の運搬、下画面では東京から福島への水の運搬だ。どちらの運搬も丹羽の身体が直接関わっており、その身体性は丹羽が口移しで水たまりの水をポリタンクに運搬するように、鑑賞者が床面のわずかな隙間からしかこの作品を鑑賞することができないという点によって強調される。

    言わずもがな、丹羽がおこなう身体性を過剰にともなう水の運搬は無駄である。わざわざ汚水を口に含み、わざわざ東京から福島までポリタンクを運ぶことに意味や価値はない。この作品における運搬の無意味さを際立たせるのは、水循環という自然に(よって)発生する、より巨視的な次元における水の運搬だ。新宿にある水たまりの水は時間がたてば蒸発し、その水蒸気は雲の一部となる。その雲はいつか楢葉町に雨を降らし、水たまりを発生させるかもしれない。自然に起こるこの水の運搬を待たずに、わざわざ自らの身体を自然に介入し、水を運搬することは徒労であると言わざるを得ない。

    もちろん、この作品は福島第一原発事故に対する丹羽のインターベンション(介入)の数あるなかのひとつであり、新宿の水たまりの水を福島に運搬することが放射能汚染水を想起させるというようなことは簡単に指摘することができる (★1)。ここで重要なのは、丹羽がこの作品を『新宿の水たまりを楢葉町の水たまりに移しかえる』ではなく、『水たまりAを水たまりBに移しかえる』と名づけたことだ。新宿や楢葉町はこの作品におけるものであって、あくまでもひとつのケースである。事実、彼は2004年にも同名の作品(『水たまりAを水たまりBに移しかえる (2004)』)を発表していて、そこで彼は口移しで旧東ベルリンの水たまりを旧西ベルリンの水たまりへ移しかえる。丹羽は水の運搬一般について言及しているのだ。匿名の水たまりたちは水循環のおかげでつねに水を交換することができている。そこにひとつのケースとして、丹羽は自らの身体を介入させ、水循環を妨害する。しかし、彼の身体性の介入は自然が生み出す関係に影響を及ぼすことはない。過剰な身体性と過剰な無駄が自然という全体的な関係性によって押さえこめられる。

    丹羽の作品ではさまざまなものが運搬されるが、なかでも象徴的なのは貨幣だ。2011年の『イスタンブールで手持ちのお金がなくなるまで、トルコリラとユーロの外貨両替を繰り返す』(以下、『トルコリラとユーロの外貨両替を繰り返す』)で、丹羽は文字通りイスタンブールでトルコリラとユーロを交互に両替する。これも水の運搬同様、まったくもって無意味な行為ではあるが、丹羽はこれによって両替の際に発生する手数料の存在を浮き彫りにする。25分ある映像はただ彼が両替所を往復するといういたって単調なもので、ここでも彼の身体性が過剰に表象される。だがさきほどとは異なり、ここで運搬され交換されているのは貨幣である。そして明らかにこの無意味な貨幣の交換は個人レベルでの無意味な損失を生み出しているものの、その損失は両替手数料というシステムによって発生している。もちろん両替をしなければ手数料は発生しないが、そもそもどうして手数料が発生するのかというシステムの問題は作品の無意味さを通じてしか目を向けることができない。

    シアン・ンガイはアドルノの『美の理論』を参照しながら、中産階級が獲得した「アートの自律性」によってアート作品は社会という外部との関係を重視するようになったと言う。社会との関係を重視したことにより、「自律的なアートプロジェクトはそれ自身の社会的無力を基盤とした、罪悪感によって駆り立てられる思索になりつつある」(★2) 。丹羽の作品を特徴づける過剰な身体性は彼の作品が社会を関係をもつうえで欠かせない一方で、それらは水循環という自然の大きなシステムや貨幣交換のシステムによって抑圧されている。そのとき、丹羽の作品は社会に対してなにも影響を与えることができない社会的に無力なものであることが判明する。

    ンガイは著書『Ugly Feelings』の第1章で「トーン (Tone)」という言葉を取り上げる。この言葉は「音の調子」や「音色」といった意味もあり、「色合い」や「感情・思想の傾向」などの意味をもつ、日本語では訳しづらい言葉だ。そんな「トーン」という言葉をンガイは自身の批評の核心として位置付けようとする。ンガイにとってトーンとはアート作品にある情動のことだ。たとえば、音楽を聴くときに感じる喜びや悲しみはその曲の「トーン」だといえるだろう。重要なのは、トーンは作品の一部分だけに存在するのではなく、作品の全体を貫いているということだ。そういう意味でトーンは作品に内在し、分離することができない。曲の一部分だけを聴いて、この曲は悲しいトーンがあると判断することはできない。ンガイのトーンの定義においてもうひとつ重要なのは、トーンは客観的であるということだろう。簡単に言えば、トーンの評価は人それぞれによって異なるものではなく、客観的に同じでなければならない。

    だが、これだけではンガイがトーンを自身の批評の中心に位置づけたことを説明することはできない。彼女はトーンを「どのようにそれぞれの批評家が作品を同等にホーリスティックな社会的関係の基盤のなかの全体性として理解するのかによって重要になってくる情動的価値」と定義する (★3)。どういうことか。たとえば、ベンヤミンがワイマール共和政時代の詩人、エーリッヒ・ケストナーの詩に絶望という情動を見出し、それをもとにドイツの左翼インテリの政治思想を批評したように、絶望という情動的価値は当時の社会において支配的だったイデオロギーを示すのに有効である (★4)。つまり、ンガイはトーンがイデオロギーを分析するのに役立つと主張しているのだ。事実、「現実の状態の全体的な複合体とつながる、物理的な表象によって覆い隠された想像的な関係性」と定義されるイデオロギーは、トーンという概念に似ている。アート作品という物理的な表象に覆い隠された想像的なトーンは、その作品がどのように当時の社会的状況と関わっていたのか。トーンは文脈依存的にならざるをえない現代アート批評にとって欠かせない存在なのだ。

    では、丹羽良徳の作品におけるトーンについて検討してみよう。丹羽は自然や貨幣といったシステムに対して、あえて無意味な介入をすることによってそのシステムにおける問題意識を鑑賞者に共有する。このとき、丹羽の作品全体を貫くのは無意味さや無気力さによって生まれる退屈な情動だろう。この退屈さは自然や貨幣といったイデオロギー(どちらも近代的主体によって形成された意味においてイデオロギーである)の分析にどのように役立つのだろうか(★5)。

    自然も貨幣もある種の交換法則によって成り立っている。自然においてはたとえば水循環であり、貨幣であればたとえば外貨両替である。しかし、どちらの交換もそれらがイデオロギーであるがゆえに等価交換ではない。水循環は自然というイデオロギーによって支配されているがゆえに、人間によってコントロールされ、水が等価交換されなくなる。貨幣も同様で、外貨両替においては手数料によって外貨両替は等価交換ではない。等価交換では交換が終わることはないので、無限反復的に交換が行われる。純粋な水循環においては、蒸発した水たまりの量はすべて雨として還元される。貨幣も損失することなく外貨に両替しつづけることができる。しかし、丹羽の作品における無意味な交換は、彼の作品映像のようにいつか終わる。水たまりの水を口移しで別の水たまりに移しかえるなかで、身体的な拘束のせいですべての水たまりの水を完全に移すことはできない。トルコリラとユーロの交換も手数料という拘束によっていつか終わることとなる。丹羽の作品における交換の有限性はたんに交換が等価でないことを示すだけでなく、作品の全体に退屈さが貫かれていることを示す。

    退屈さという情動について、ンガイは「Stuplimity」という造語を用いて論じようとしている。StuplimityとはStupefaction(ぼうっとすること、退屈さ)とSublime(崇高さ)を合わせた造語で、大量の断片的なものを分類しないといけないような退屈で呆然とする情動のことだ。ンガイはアメリカ人の作家で美術収集家のガートルード・スタインの『The Making of Americans』(『アメリカ人の形成』)という小説の批評を通じ、Stuplimityという情動を発見する。『The Making of Americans』という小説でスタインはハーズランド家とデーニング家の歴史を描いているが、多くの場面でスタイン自身がもとの語りにメタ的な語りを重ねる。Stuplimityという情動を発見するためにンガイがとくに着目するのはスタインが用いる反復的な文体だ。

    As I said once about her she had it a very little in her to have a very little sense of herself to herself inside her from a little power she felt in her with her husband when he first married her. She had then in her a little resistance of herself inside to him then, she was not yet then a joke to him when she had this little resistance in her, this little resistance of herself in herself in their early living together. (★6)

    わたしが彼女 [ハーズランド夫人] について前にも一度言ったように、彼女はとても小さくそれを持っていたために彼女は夫が彼女と結婚した当初、彼といるとき彼女自身に感じる小さな力から彼女は彼女自身について彼女のなかにとても小さな自意識を持っていた。彼女はそして彼女自身にある小さな抵抗を彼のなかに持っていて、彼女がこの小さな抵抗—彼らがともに暮らし始めたころ、彼女自身のなかにある彼女自身のこの小さな抵抗—をもっていたとき、彼女はまだ彼にとって取るに足らない存在ではなかった。(筆者訳)

    同じ単語を反復するスタインの独特な文体は、それじたい崇高なものではない。むしろ読者に疲れや退屈を喚起されるその粘っこさは崇高とは真反対の、Stupefactionに分類されるようなものだ。だが、ンガイがこの詩をSublimeでもStupefactionではなく、Stuplimityという情動に分類するのは、それが崇高なシステムに対峙しうる「彼女」という小さな主体を形成しているからだ。退屈さという情動だけが全体的なシステムを狂わせる可能性がある。さきほどの引用だけを読むと、あたかもこの小説における「全体的なシステム」とは家父長制のことを指していると考えそうだが、ンガイによるとスタイン自身が対峙しているのは「男性」や「女性」のように人間主体が分類される方法論(タクソノミー)である (★7)。

    しかし、ンガイのいう全体的なシステムに対する「小さな抵抗」はそれ自体がアート作品の無力さを示すものなのではないか。ネットワークによって構成されるシステムにおいては、たとえそのなかにあるひとつの関係が切断されたとしても、ネットワークは全体として影響を受けることはない。それがネットワークの利点でもある。ひとつの電線が切断されるだけで、大規模な停電が起こる場合があるが、ネットワークにおいてはたとえひとつの関係が切断されたとしても、ネットワーク全体に影響を及ぼすことはない。

    丹羽良徳の作品におけるインターベンション=介入は、全体的なシステムとの対峙という構図によって語ることはできない。丹羽の作品が無意味だといわれるのは、それがたんにシステムの一部と化しているからだ。『水たまりAを水たまりBに移しかえる』では水循環というシステムのなかのひとつの関係として、『トルコリラとユーロの外貨両替を繰り返す』では貨幣交換というシステムのなかのひとつの関係として存在している。あたかも丹羽はネットワークのなかにあるひとつの関係として無限の全体性に吸収されているかのようにみえる。しかし、丹羽の身体的反復が有限であるかぎり、丹羽は無限のネットワークと見分けがつく。丹羽はハロウィンの仮装のように膨大な数あるネットワークのなかにあるひとつの小さなつながりを模倣している。だれかの物まねをすることを英語で「impression」というように、丹羽はStuplimityというトーン=全体的な「印象」をまとうモノマネ芸人(インプレッショニスト)なのだ (★8)。印象派の画家が外に出て自然にある光や色をそのままキャンバスに表現しようとしたように、丹羽も外に出て社会にあるイデオロギーをそのまま映像に残した。きらびやかな印象派の作品ではなく、退屈な作品を生み出す丹羽は現代社会に蔓延るイデオロギーの最大の批評家でもある。

    ★1: 福島第一原発事故に対する丹羽のインターベンションはほかにも、『デモ行進を逆走する (2011)』や『首相官邸前から富士山頂上までデモ行進する (2012)』などがある。
    ★2: Sianne Ngai, Our Aesthetic Categories: Zany, Cute, Interesting (2012), 105.
    ★3: Sianne Ngai, Ugly Feelings (2005), 43.
    ★4: 同上
    ★5: 自然という概念が近代的主体によって形成されたイデオロギーであることは、デカルトに代表される機械論的自然観に。
    ★6: Gertrude Stein, The Making of Americans (1925).
    ★7: Ugly Feelings, 294.
    ★8: もう一歩踏み込んで言えば、『水たまりAを水たまりBに移しかえる』において床面のわずかな隙間からしかこの作品を鑑賞することができない鑑賞者は丹羽のモノマネをしているといってもいいし、丹羽、いや丹羽がその一部となっているシステムによってモノマネを強要されているといってもいい。鑑賞者はシステムの一部として取り込まれてしまっているし、そのなかのひとつの関係を模倣しているともいえる。

    印象派=モノマネ芸人としての丹羽良徳:退屈なイデオロギーの退屈な模倣
  • 2024.5.2

    KYOTOGTAPHIEを見にいく。ヴィヴィアン・サッセンの写真はあまり期待していなかったけど、意外と好きな写真も多く、女性の身体と毒キノコをコラージュしたり、大胆に身体を切り離したり、写真の上に絵の具でストロークを描いたり。人物が写っていない写真も良いものもあったりして、でも身体はすべて匿名で 、人を素材として扱っているところに危うさがあった。映像作品は正直よくわからなかった。たぶんキュレーション上、映像作品を入れないと「だれてしまう」と思ったのだろう。サッセンの写真であれば、そんなことはないと思う。京都新聞ビルの地下一階は坂本龍一のAMBIENT KYOYOがやっていたときも行って、やはり音は良いと思った。

    ルシアン・クレルグの写真はフランス南部のジプシーを写したもので、とくにジプシーダンスとギター音楽、そしてジプシーギタリストのマニタス・デ・プラタをフィーチャーしている。写真としては正直うーんという感じだった。ギャラリーも思ったより狭く、写真がぎゅうぎゅう詰めになっていたのが少し残念。

    ヤノマニ族を撮影したクラウディア・アンドゥハルは挑戦的な作風ながら人類学的な視点もあり、かつ活動家として活動しているユダヤ人の作家で、2階のドキュメンタリー映像を見ていて面白かった。サッセンとは大きく違い、写している人物の名前がしっかりとタイトルに反映しており、匿名性は排除される。同じように、芸センのジェームス・モリソンの『こどもたちの眠る場所』は極度にキュレートされた部屋のように仕切られた空間に、数十人の子供たちの肖像写真と部屋の写真が写される。名前と年齢、そして簡単なプロフィールが書いてある。パレスチナ人の難民の子供とイスラエルの厳格なユダヤ教信者の子供を向かい合わせて配置したり、ウクライナとロシアの子供(それも後者は空軍志望の)をこれも向かい合わせたり、でもうまいことそれぞれの「顔」に着目するように写真というメディアが促す。意図が透けて見えたけど、良い展示だと思った。

    写真にはテキストはいらない、と石内都が言っていたことを考えていた。展示にはカメラ(それも良い一眼レフ)を首にかけていた人が多い印象だった。良い写真の良い写真を撮って何になるのかはよくわからないが、たぶん写真を撮るのが好きな人がけっこう来ていたイメージ。みんなテキストは必死に見ているんだけど、肝心の写真は数秒で通り過ぎていくので、写真を見る体力がSNSなどによってなくなっているのではないか、とおじさんばりの感想を抱いたりした。

    途中、眠くなって、意図せず錦市場近くのカフェでアイスコーヒーとプリンを頼んだ。プリンにはカットされたオレンジが添えてあった。

    2024.5.2