2023.8

  • 2023.8.31

    Workflowy→Ulysses→Scrivenerの流れで院に提出する書類を書いていた。やっぱりプラットフォームを変えると、べつの角度から文章がみれて、批判的なフィードバックを自分ですることができる。プラットフォームというのは、フォントや色もそうだし、どこかべつのところに移している感覚が大事なのだと思う。きのうの読書会でも、ジェイムソンの感覚的な文章をどう理解できるのか、いろいろ話しているうちに彼の感覚がすこしは理解できた気がした。とくにビデオという複製技術と疎外の関係について。

    いま、演劇祭のライターをやっていることもあって、岸田國士戯曲賞の受賞作を片っ端から読んでいる。先日、図書館で借りた『ドードーは落下する』を読む。統合失調症をもつ芸人とその周りにいる友人とのあいだで物語(のようなもの)が展開されてゆくのだが、すでに読んだ二つの戯曲に比べて、読後感が薄かった。終わりで落ち着かないような感じがして、ここで終わっちゃうの?と思った。選評をみてみたら、実際に劇をみると戯曲を読んだときとの印象が変わると書いてあって、やはりそうなのだな、と感じた。本を読んだあと、すぐにほかの誰かの感想や批評を読んで、答え合わせのようなことをする自分にたしょう嫌気がさした。「読後感」の読後が短いだけなのかもしれないし。思っていることをパン生地のようにゆっくりと発酵せねば。

    8月が終わったときに喜びと喪失感を同時にいだく。

    2023.8.31
  • 2023.8.30

    朝起きて、ベッドの上で眼鏡をかけないまま、携帯でジャニーズ事務所の性加害再発防止チームの報告書を読んだ、というより目を通したといったほうが的確だろう。正直、箇条書きで書かれてある被害者のヒアリング結果を読むのはきつかった。それは性加害が陰湿に、多くのジャニーズジュニアのメンバーに対し頻繁におこなわれた事実もそうなのだが、そこにはPTSDやトラウマを抱えたアイドルたちの存在がいままでまったくみえなかったことがある。だからこそ、ジャニーズファンがジャニーズのアイドルには非がないから、いままで通りファンでいていい、というようなツイートにも違和感を抱いたというか、嫌悪感を抱いたし、辟易した。それは正しいことなのかもしれないけど、いま言うことじゃないだろう。そして、もうひとつきつかったのは、「男に犯された男」というレッテルが貼られたということが被害者からのヒアリング結果のところで書いてあって、それはPTSDの内容として否定的に書かれているのだけど、そこもいろいろ考えてしまった。結局、報告書の全部は読んでいないし、前半部分も読めたかもわからない。すでにいっぱいいっぱいだった。

    仕事前に駅前のドトールに行く。アイスコーヒーのラージを頼み、メールの返信やStatement of Purposeを書く。わたしが一度に集中できるのもせいぜい2時間くらいだから、お金を払ってドトールで作業することで生産性を高めようとする。駅前のドトールにはゴン中山のサイン入りユニフォームが飾ってあって、それを時たま眺める。ヘッドホンからは食品まつり(これはDJの名前だ)のセットを聴く。森は生きているの曲も入っていて、そのときはもうセットが終わったのかと勘違いした。

    2023.8.30
  • 2023.8.29

    今日はよい日だったと言える日が増えればいいな。よい人とよい場所で出会い、話し、よいものを見、聴き、そして眠る。

    沼津駅のくまざわ書店で現代思想を購入する。いまはなき六本木の青山ブックセンターで買った2017年11月号のエスノグラフィー特集は、控えめに言っても言わなくてもわたしの人生を大きく変えた。それがポジティブかネガティブな変化かはいまだにわからないけど、ポジティブなほうが多いと思う。そして、「生活史/エスノグラフィー」特集。くしくも、立岩真也先生の追悼文も三つ掲載されている。どれも短いが彼の生き様をくっきりと三者三様に映し出していた。

    熱海のカフェで友人と話す。まるでバスケットボール選手のピボットターンのように片足をいろんなところに突っ込みたいけど、まずは両足を突っ込まないと始まらない、そんなことを語らいあった。熱海は観光地というだけあって、平日なのに多くの人で賑わっていたが、さいわいカフェはそこまで混んでいなかったから、ゆっくり話せたと思う。こういう時間を大切にし、こういう時間が過ごせる人も大切にする。今度は最初に入る道を間違えたときにみつけた、しらすピザの「YOSHIDA」にも行きたいし、ビールも飲みたい。

    友人と別れたあと、アカオフォレストにあるギャラリー「NOT A GALLERY」に行く。カラフルな階段を登り、足場の悪い段差をまた登ると、ギャラリーがある。予約した時間をすこし過ぎたので、メールで謝りを入れておいたら、丁寧な返信がきていた。返信していただいた方の名刺をもらうと、ギャラリーのなかではオンライン会議や仕事をしている人たちがいる。じつはこのギャラリーはアカオリゾートのオフィスであるらしく、ギャラリーであるというよりはオフィス兼ギャラリーであるという。それを知ると、ギャラリーの名前にも合点がいく。アカオリゾートという会社も社員にアート作品を買うために補助金を出しているらしい。やんツーと水戸部七絵の作品を、働いている人たちの迷惑にならないように鑑賞するという経験はしたことがない。

    当初はやんツーの名前からこのギャラリーの存在を知ったのだが、やんツーの作品も発想がおもしろかったが、水戸部の作品がすごくよかったし、気にいった。具象画だけど抽象画のような。コーヒー豆を入れる袋をキャンバスに貼り付けているからこそ出るテクスチャー。フランシス・ベーコンを思い出す。手を使って塗っている彼女の作品はペイントの重さが白髪一雄のような身軽さを同時に現出している。

    帰りにVegynのDJセットを聴いた。いまさらなぜフジロックで行かなかったのかと後悔する。ROMYも同じ。そういうことがたくさんある。駅から自宅まで歩いているとき、空が抽象画のように、淡い青色とオレンジ色とが数分ごとに変化していった。

    2023.8.29
  • 2023.8.28

    研究テーマがかたまってきた。やはり自分は日本の植民地主義や帝国主義の歴史とどう折り合いをつけていくのか、ということが関心、というかひとつの責任としてある。それは卒論を書いているときからつづいている問題意識で、それを修士でもやっていきたいと思うようになった。ただそれをやるためのアプローチを変えるだけだ。今日は韓国の単色画についていろいろと論文を読んでいた。東大の加治屋先生も中原佑介の単色画論について書いているのを知った。なんかいけそうな気がした。

    そんななかでブリコジンが死んだとか、原発汚染水に中国がどうのこうので、それに対してふかわりょうが昼のワイドショーでコメンテーターとして科学的な正しさが正しいんだ、といったことをまっとうな感じで主張していて、なんだか気が滅入った。「レイシストになろうとはしてないけど」という文句はレイシズムを合理化するものではない。科学が正しいから正しいのだ、というトートロジーも聞き飽きた。正しさなどここ10年くらいで霧散してしまったことくらいわたしたちは身をもって知っているはずなのに。

    クリーニング屋さんでズボンを受け取る。よく履くATTACHMENTの黒のパンツだ。フジロックに履いていったときにすこし擦れができたようで、それをクリーニングから返ってきてちゃんと認識したのだが、それもそれでダメージジーンズのような味があると自分に言い聞かせた。服もよく着ていればけっきょくは消耗品だ。それでもぼくはいろんなものを長く使っているほうだと思う。よくいえば物持ちがよいし、悪く言えばズボラだ。そういうのも考え方次第なのだろう。

    2023.8.28
  • 2023.8.27

    地元沼津で開催されたみちくさ映画祭という短編映画祭に行くことにした。塾で教えている生徒から聞くまで、沼津で映画祭というものが開催されるなど思ってもみなかったから、それはそれはびっくりした。その生徒に聞いてみると、映画祭は10月からおこなわれるさいたま国際芸術祭にかかわっている人が計画をしていたという。ウェブサイトをみてみてもなんだかおもしろそうだということで、さっそくオンラインでチケットを買った。そして、今日は午後1時から休憩や「みちくさタイム」といって会場を移動する時間を含め、一日中短編映画をみていた。会場も呉服店から始まり、ブリュアリー、そしてたぶんタワマンを除く沼津で一番高いビルである、吉本の劇場も(なぜか)入っているラクーンで幕を閉じた。正直なところ、映画のクオリティはあまり期待していなかったというのもなかなか上から目線だけど、そう思っていた。けど、実際みてみると、どの映画にも引き込まれ、飽きずに20本弱の短編映画をみた。なかなか一位を決めることは難しいし、だからこそ観客投票といって、封筒にどの映画が一番好きだったかを観客が投票することができたが、それをやらなかったわけで、でもここでひとつ印象に残ったものを挙げるなら、「外郎女」という作品だろう。外郎売という歌舞伎の長台詞を現代では役者の発声練習に使われる長い早口言葉のようなものがモチーフとして用いられ、彼氏の一人称視点から彼女がいつも外郎売の台詞を混ぜてしゃべるところから作品は始まり、彼氏の浮気が彼女にばれたあとから彼女は外郎売の台詞しかしゃべらなくなる。和菓子のういろう(本来、歌舞伎の外郎売は和菓子ではなく薬の外郎を売っていたらしい)が彼女と彼氏の仲をふたたび結ぶというユーモラスなオチで終わるのだが、ほかの作品とはちがってデイリーヤマザキで購入されたお菓子の数々をめぐるユーモアや一人称のカメラワークなどがストーリーを壊していく、カオスな作品だったから、印象に残っているのだと思う。なかなかずるいと思う。

    今回出品された作品の監督の男女比は気になったことは否めなくて、プログラムを確認する限り、19作品中、男性が監督を務めた作品は16本で、女性の監督の作品は3本しかなかった。とくに気になったのは、『10年を経て』という作品があって、それは2度の中絶を経験した女性に、彼女の元部下がインタビューするという映像作品で、2度のインタビューのあいだに、1度目の妊娠のときの相手のインタビュー映像が挟まれている。それはその二人のあいだの妊娠にたいする責任認識の重さのちがいを対比し、男性の加害性を前景化するように作用していると思われた。しかし、あとあとプログラムを確認すると、この作品の監督は男性で、しかも「東京フェイクドキュメンタリー映画祭主催者」と紹介されている。え、いまみた映像はすべてフェイクだったのか?という問いが頭を駆け巡るわけだが、それじたいもこの作品が狙っていることだとしたら、それはすごい効果であると思う。つまり、インタビューで構成される作品のインタビュー内容—それも中絶について—がすべて台本によるものであるとしたら、それはすごく怖いことであるように思える。それをフィクションとして描けることが男性の加害性を前景化されるものだとしたら。

    2023.8.27
  • 2023.8.26

    ゆっくりとお風呂に入る。お風呂で『燃ゆる女の肖像』をみる。「死ぬ (mourir)」と「走る (courir)」の言葉遊びやフランス語独特の言い回しがあって、衣装や舞台、たばこを吸うシーンまでもがすごくフランスっぽい感じがする。

    夜は、オンラインで数学を教えた。この生徒とは最初の授業だった。数列は高校のときやりこんでいたので、授業はうまくいったと思う。スカイプでやるのは初めてだったので、いつもはZoomでできる、iPadの画面を共有する方法ができなかったけど、なんとか別のスカイプのアカウントをつくることで解決した。生徒もスカイプは使ったことがなく、操作に慣れてなさそうだったので、次からはズームですることにする。

    そのあと、ズームで塾の生徒がやっている対話に参加した。ぼくの母校の高校で生徒会長をやっていて、地元にかかわりのあるいろんな世代を集めて対話をしているという。対話といっても、ぼくが思っていた対話とはちがくて、ゆるい感じで参加者が話したいことを話すという形式で2時間はすぐ消えていった。その生徒はいつも塾でみているよりもずっとズームでは元気で、というと語弊がある、なぜかというと塾でも十分元気で社交的であるからだ、年が離れている人たちに対しても明るく振る舞っていた。そういうことが自然にできる人であることはわかっていたし、生徒会長になる人はそういう人なんだな、と改めて感じたわけだが、それを強く感じた2時間だったし、なんだか嬉しい気持ちになった。また自分はそうはなれないし、ぼくはなにかと強い意見や価値観をもっているほうだから、人に応じてそれを曲げたり、曲げるまでいかないとしても、文脈に応じて従順になることもあまり得意ではない。そういうことがすごく得意な人もいるというだけの話だ。

    2023.8.26
  • 2023.8.24

    夜にアフターサンをみた。美しい映像のモンタージュ、そして時々一瞬だけ光るストロボの暗い部屋。ちょうど夏について考えていたので、娘と父がリゾート地で過ごしているのをみながら、リゾート地でも人々は反復する日々を過ごしているのだと思いながらも、アフターサンはその反復にある微細な変化を巧みに拾いあげる。リゾート地でプールサイドで寝そべる二人のあいだにもつねに緊張関係が走っていて、それは二人のあいだにある秘密をめぐっている。それは父にとっては妻の離別による日常におけるモヤモヤを太極拳や絨毯といったオリエンタリズムに乗せてなんとか昇華させようとすることで、娘にとってはレズビアニズムとの折り合いのつかなさや子供と大人とのあいだの曖昧なグラデーションである。そして、それはすべてビデオカメラによって記録される。

    ビデオカメラですべてを記録するという欲望は、日常を日記という媒体によって記録しようとするわたしの欲望と似ている。それを20年後に見返すソフィーは父の微細な変化に気づくのだけど、もう父はそこにいない。この映画には壮大なドラマや物語があるわけではない。しかし、映画という媒体の美しさを物語っているのは、それがベタに記録映像のコラージュであるにもかかわらず、わたしの心になにかを響かせているということだ。わたしの日記もそうなっていたい。

    2023.8.24
  • 2023.8.23

    仕事の帰りにいつもある橋を渡るのだが、その橋のうえにきれいな虹がかかっていた。しかも、二本かかっていた。一本はくっきりと虹の七色がみえて、もう一本はうっすらと橋の根元から伸びていた。どちらの虹も光の屈折でできているのに、なんだかまったくちがうものにみえた。普段、仕事では科学や物理を指導する立場にあるから、虹は全て同じものからできているという物質主義的なものの見方からは離れたいときもある。そういうふうにして、わたしたち人間もみな「大体はタンパク質と水」なのに、それぞれの人と接しているとまったくもってちがう姿、ちがう口癖、ちがう表情をもっている。橋のうえにかかっていた二本の虹もそれぞれがまったくちがう方向を向いていたようにみえる。けど、その目線はどちらも空を向いていた。

    虹をみるように、小さな喜びを積み重ねていくことをしていく。夏というと、お祭りやフェスティバルのように、ある短い期間を存分に楽しみ、あるときはいつもは絶対にしないようなことをする、というイメージがあって、そういうことができる人たちに憧れてきた。だからこそ、夏にあまりよいイメージはない。しかも、暑いし。そういう暑すぎる夏を乗りこなすためにも、わたしは身体をそういった祭りのような一瞬の激しさに耐えさせるようなものとしてみるのではなく、あくまでもか弱い、フラジャイルなものとして認識し、だからこそエアコンのなるべく効いた部屋で、名前に夏を冠した曲だったり、コンビニで100円以下で売っている、いちご味のかき氷を食べて、自分の夏(自分だったらそれに「夏」という名前はつけない)をつくりあげるほかない。夏ももう終わる。わたしはそれを今か今かと待ちわびている。

    2023.8.23
  • 2023.8.22

    ほんとうに研究したいのかがわからない。正直、自分はそこまで好きなもの、というか突き詰めたいものがないのかもしれない。けっきょく、毎日怠惰に過ごしてしまい、これを深く学びたいから寝る間も惜しまずそれに励むみたいなことが人生で一度もない。ギターも将棋も中途半端だし、やることなすことすべてが途中で終わっている。いまだになにかをマスターしたことがない。もちろんそれなりにギターも将棋もできるし、上手いと言われることもあるけど、だからといって、すごく上手でもないし、なにもできない自分がいる。なにをやりたいのだろうかがわからないでいる。割り切りの話に戻るが、けっきょく大学院に行くのは、将来の仕事を得るための紙切れということで割り切る必要があるのか。だから、二年間我慢してその紙切れを得る、ということが理解できないし、消化できない。大学院に行くからには、興味のある分野を深く研究し、おもしろい教授のもとでみたりきいたりしたい。

    フランスの近代詩にめっぽう詳しい人がいたり、毎日哲学書を読んだり、そういうオタク気質の人たちが周りにいるなかで、自分はなにをやっているんだ、という感情に苛まれている。これがやりたいことなんだ!という決定がずっと保留されていて、まったくもって前に進めない状況だ。それを誰に相談するのかもわからない。それはひとえに自分が頑張っていないからなのだと思うと、それはそれでしんどい。なにかやりたくないことのために労力を浪費しているように思えてくる。ばかばかしい。もっと悩む時間がないといけない。ひとりで静かに向き合う時間が必要だ。それは山で悟りを開くような大それたことではなくて、あくまでも比喩、いや比喩と現実のあいだの次元での話だ。

    お金を稼ぎたいからと割り切ってコンサルになることもできたはずだし、でもそれをしなかったことには理由があって、それは自分が割り切れるような人間ではないと自分が判断したからではないか。それはもちろん自分だけの決定ではなく、周囲の人間から自分がどうみられているのか、自分がどうみられたいのか、ということとの緊張関係において成立していることだ。でも、やりたいことがない現状だと、割り切るという言葉がもはや成立しないわけで、理想を語らずして現実も語れないのであれば、それは自分をどちらにせよ見失ってしまうことになる。とにかく自分を律しないといけない気がするけど、そんなものを嫌っている自分を割り切るべきなのか。

    2023.8.22
  • 2023.8.21

    8月21日というとりたてなにもない日にわたしはなにをしたのかということを今から書くのだけど、わたしも今からなにを書くのかがわかっていない。書くことはまるでジャングルでひとりツアーガイドの旗を振りながら彷徨っているようなものだ。そして、それは楽しいことだと簡単にはいえないけど、それでもやっているので、どこかに快楽を覚えている自分もいるのだろう。しかも、これは8月22日に書かれているもので、わたしは21日に日記を書くことをしなかったから、こういうふうにして22日の昼に21日に追いつこうとしている。いや、わたしはつねにすでに過去を追い抜いているので、追いつくというのはいささか不自然に聞こえるかもしれないけど、日記を書くことは過去に追いつくようなことだとわたしは感じるのだ。だから、追いつくでよいとしよう。

    わたしは音楽を聴くことが好きで、趣味のひとつとして音楽鑑賞を掲げている。聴く音楽は日や時期によってさまざまで、それぞれの年でなにを聴いていたかがわかるリワインドという機能をみれば、どのようにしてわたしの聴く音楽が変わっていったのかがわかる。最近はいろいろな音楽を聴くが、とくにmei eharaはふとしたときに聴いていて、そして江原茗一名義で書かれる彼女のブログ記事もけっこう読んでいる。mei eharaの音楽、とくに歌詞は浮遊感があって、雲のようにつかみどころがない。音楽は洗練されているけど、音数はすくなくて、初期の作品と直近のアルバム『Ampersands』を比べると大きな違いがある。それはバンドメンバーが変わったこともあれば、音へのアプローチの変化もあって、『Ampersands』の曲たちはセルフカバーもあって、それはSSWとはまた違ったサウンド—浮遊感を狙って出すことができている—という意図性みたいなものが現れている。だからこそ、初期の作品、とくにアルバム『Sway』に愛着を感じる。意図的でない音楽、作り込まれていないそのままのものを聴きたいときもあるのだ。

    2023.8.21