Workflowy→Ulysses→Scrivenerの流れで院に提出する書類を書いていた。やっぱりプラットフォームを変えると、べつの角度から文章がみれて、批判的なフィードバックを自分ですることができる。プラットフォームというのは、フォントや色もそうだし、どこかべつのところに移している感覚が大事なのだと思う。きのうの読書会でも、ジェイムソンの感覚的な文章をどう理解できるのか、いろいろ話しているうちに彼の感覚がすこしは理解できた気がした。とくにビデオという複製技術と疎外の関係について。
いま、演劇祭のライターをやっていることもあって、岸田國士戯曲賞の受賞作を片っ端から読んでいる。先日、図書館で借りた『ドードーは落下する』を読む。統合失調症をもつ芸人とその周りにいる友人とのあいだで物語(のようなもの)が展開されてゆくのだが、すでに読んだ二つの戯曲に比べて、読後感が薄かった。終わりで落ち着かないような感じがして、ここで終わっちゃうの?と思った。選評をみてみたら、実際に劇をみると戯曲を読んだときとの印象が変わると書いてあって、やはりそうなのだな、と感じた。本を読んだあと、すぐにほかの誰かの感想や批評を読んで、答え合わせのようなことをする自分にたしょう嫌気がさした。「読後感」の読後が短いだけなのかもしれないし。思っていることをパン生地のようにゆっくりと発酵せねば。
8月が終わったときに喜びと喪失感を同時にいだく。