2023.5

  • 2023.5.22

    結局、卒業式には行かなかった。自分は卒業生ではないことと、とくに行く気が起きなかったことが理由だ。一応、卒業生の知り合いが何人かいるので、昼食をつくりながらライブ配信を観ていた。卒業式には68年のオリンピックで表彰台で拳を高く突き上げた、反レイシズムの象徴ともいえる写真に写っているトミー・スミスがステージの上にいた。彼は学長から賞状をもらうと、あのときのように学生とともに拳を高く突き上げた。行かなかったことの後悔はスミスを生でみることができなかったくらいだろう。予想通り、広場は人で埋め尽くされていたから、行かなくてよかったと思うし、主役はわたしではなかった。

    昼は文章を書き、夜は同僚の退職を祝った。上司の手作りのフルーツリキュールとデザートを楽しんだ。思い出を語り合い、すこし涙した。その同僚はジャーナリストとしてラジオ番組をもちたいという。オンラインで聴けたら嬉しいな。リキュールは6種類あって、まずはメイプル、次に梨、それからブドウ、チェリー、桃と続いた。個人的にはチェリーリキュールの酸味と苦味が好きだった。桃のリキュールは後味が一番その果物の風味に近かった。別れたあとの春の夜の空気のそのにおいを忘れることはないだろう。

    2023.5.22
  • 2023.5.19

    月曜日に卒業式が開催されるので、人々が忙しそうにステージや椅子を広場に設置していた。卒業式にあわせて、今週末にはさまざまなイベントがおこなわれる。卒業生の保護者も大勢くるだろう。卒業してからもうすぐ一年が経つ。わたしはそのときからどれだけ成長したのだろう。仕事や生活を通じていろんなことを学んだが、成長しているかというと去年と同じ場所にいるからかもしれないが、あまり変化は感じない。土地が変わらないと人も変わらないのかもしれない。

    わたしもそろそろ仕事を「卒業」する。そのあとはとりあえず日本に帰ってから考える。田舎に安い一軒家を買って、アートスタジオにするのもおもしろいかも、と非現実的なことを考えてみる。けっきょくお金があればそんなことなんか簡単に実現できるのだろうけど、まずもってお金に余裕があればそんなアイデアは浮かばないし、お金をもっている人は田舎の安い一軒家にアートスタジオはつくらないだだろう。そんな社会でわたしたちはなんとか生きている。

    2023.5.19
  • 2023.5.17

    仕事も佳境を迎え、出勤するのもあと4日となった。そろそろ片付けも始めなければならない。部屋にあるすべてのものをスーツケース2個に入れることはできないから、取捨選択をするほかない。日本に持って帰って、それを使うのかを考える。実家も引越すらしいから、気に入っている服以外は全部捨て、本もあらかた売ったりすると思う。こんまりのように捨てるのは比較的得意だと思うから、すんなり行くとは思っていても、案外そうはいかないかもしれないから、早めに取りかかったほうがよさそうだ。今年は荷物を入れるダンボールもいらないのだ。

    2023.5.17
  • 2023.5.16

    旅行から帰ってきた。旅行から帰ってくると(土産と)土産話が求められるから、旅行ではいろんなことをして、それらを言語化したほうが、土産話を周りにするうえでもいいと思う。どれだけ「表面的にはつまらない出来事」をおもしろく語れるのかということにもかかっている。それは自分の身に起きたことをある種誇張して、「自分なりの」解釈を組み込むということだ。たとえば、「この美術館のこの展示をみた」ではまったくもってつまらないから、それをまえの話の文脈にあわせて、「そういえばこの前この展示をみて、それって今の話とつながっていない?」というような感じで自分の解釈をぶちこむ。それは力技だ。でもそうしないと土産話はただの小学生の絵日記になってしまう。いや、絵日記のほうがおもしろいのかもしれない。世界を生きるうえで自分が評価されるおおくの尺度のうちのひとつが「おもしろさ」であれば、わたしはその土俵くらいでしか勝負できないと勝手に思っているので、それが社会において大きなウェイトを占めていないときでも「おもしろさ」というものを追求してしまう。

    優しい文章を書きたいと思う時がある。優しい文章を書ける人は「優しい文章」ではなく「やさしい文章」と書くだろう。それはたんにひらがなと漢字の量のちがいという話ではなく、文章から滲み出てくる「やさしさ」のことだ。優しい文章はかならずしも私に鋭く突き刺すようなメッセージをおくることはないけれども、それは私のなかに染み込んでくる。そのような文章に憧れる。だからといって、私の文章は人になにか突き刺すようなメッセージを伝えているかというとそれはちがうのだが。でも、私は「おもしろい文章」は書きたいと思う。人々を笑わせたり、そうでなくてもなにかに興味を持ってもらったり、普段考えないなにかについて考える機会を設けたり、そういう文章が書きたいとずっと思っている。それは尊敬している先輩が出版社で働いていたときに、本という媒体を通じて人々の思考に影響を与えたいという願望があると言っていたように、私は文章を書くときに、それによって思考する、信の安定を脅かすようなものを書きたいと(無意識的に)考える。「優しい文章」は読者の思考に影響を与えないというとそうではないのだが、感触がちがう。「突き刺す」と「染み込む」。

    「突き刺す」と「染み込む」はたんに時間の問題なのだろうか。突き刺すことは一瞬でできるけど、染み込ませるには時間がかかる。西村紗知さんの論考を思い出す。西村さんはいろいろ僕のnote記事にいいねしてくれたりしている優しい方なのだが、彼女のお笑いについての批評には切れ味がある。この論考で西村さんがテーマにしているのは「痛みを伴うお笑いが無効となったいま、どんなお笑いが可能なのか」という答えが簡単に出そうだが、じつはそうでもない問いだ。日本のお笑いやバラエティというカテゴリにおいて、ドッキリやツッコミという暴力的な表現をもって笑いをつくろうとする行為を私は小さい時から幾度と目にしてきた。たとえば、ウエストランドがM-1グランプリで優勝したとき、似た問いが各方面から提出された。それは私と同じような環境で生まれ育ってきた人たちが「傷つけない笑い」というものが可能なのかという共通の問いをもって、それを自分自身に問うようなしかたで。つまり、バラエティにおける「痛みを伴う笑い」が学校におけるいじめにつながっているとしたら、私にはどういう責任があるのか。

    「お笑いが暴力的な表現でもって成し遂げたかった目的は、今となっては必ずしも暴力的な表現を必要としないのかもしれない。あるいは、今現在暴力的な表象を用いるお笑いの表現は、かつてとは違った位相にあるのかもしれない。」それはそうなのかもしれない。「優しいお笑い」というものがあれば、その可能性について考えてみるしかない。それを西村は男性ブランコにみてとり、私は自分にみてとってみる。とくに「優しくなりたい」という願望があるわけではないが、斉藤和義が「やさしくなりたい」で歌ったように、私は「愛なき時代に生まれたわけじゃない/キミといきたい キミを笑わせたい」という欲望に駆られているのかもしれない。時代のせいにするわけでもなく、いや時代のせいにして、「愛」というものを「おもしろさ」というものと考えなければ、実践しなければ。

    2023.5.16
  • 2023.5.12

    今日から3泊4日でニューヨークとニューヘイブンの旅だ。初日の今日は仕事終わり(といっても大した仕事をこなしたわけではない)に飛行機に乗り、ラガーディア空港へ。JFKよりマンハッタンに近いので便利だし、思ったより何倍もきれいで清潔だった(なにを期待していたのか)。そのあとは直行でお目当てのホイットニー美術館へ。Josh Kline展をみにいく。Josh Klineといえば、あの点滴のインスタレーションで有名な現代アーティストだが、飛行機の中で彼についての記事や論考を読んでいると、労働と階級格差にコミットしているアーティストとして描かれている。Kline展のキュレーターでもあるChristopher Leeの記事はホイットニーで展示されている作品を解説しながら、彼の政治思想や生い立ちなどを紹介している。

    興味を抱いたのはある記事で彼が「ポピュリスト」であると表現されているということだ。ポピュリストというと真っ先にトランプを思い浮かべるが、クラインはトランプとは真逆の政治思想をもつ。なのに「ポピュリスト」?どういうことかというと、クラインはいわゆるトランプの支持者層である中流階級の白人労働者に着目する。実際にApplebee や Texas Roadhouse、FedExで働く白人にインタビューをおこない、それが8階の展示の最初におかれている。8階というのは、クライン展はホイットニーの5階と8階でおこなわれているのだが、受付から大きなエレベーターに乗ると、自動的に8階に連れてかれるので、実質8階の展示が最初の展示だといえる。つまり、キュレーターは白人労働者のインタビュー=エスノグラフィーをクラインのナラティヴの冒頭にした。

    クラインの作品は個人名にこだわる一面もありつつ、他方ではディープフェイクのような技術を用いて、個人という境界を曖昧にする作品も多く存在する。実在するかわからない他者。それはまるで「私たち」にとっての中流階級の白人労働者のように。そういう意味で、クラインの作品において、個人が特定されるもの(エスノグラフィー的なインタビュー)と個人が曖昧にされているもの(ゴミ袋に入った人間の人形など)は同じことを指しているともいえる。

    2023.5.12
  • 2023.5.11

    気づいたら5月も日が2桁になっていた。5月も終われば、6月となり、6月が終われば、年の半分が終わる。仕事の年度末のレポートを提出し、ひとまず安心といったところだろうか。あともう一踏ん張り。

    右目になにか入っているような感覚に襲われ、目薬をさしてもなかなか治らなかった。とりあえずしばらく目を閉じていたら、少しだけショボショボ感というものが消えた。目がショボショボするという表現はもはや美しさがある。ショボショボイコール「あの感覚」となることもまだ不思議だ。あなたのショボショボがわたしのショボショボとちがうのかもしれないのに。

    Yve-Alain Boisの An Oblique Aitobiographyを24ページまで読み終える。Guy BrettとDavid Medellaの追悼文。no place pressから発行され、版元はMIT Pressらしい。版元がMITというのは「場所がない出版」にとってはありがたいことなのだろう。でも出版業界が場所がないのはほんとうのことで、今言われ始めたことでもない。でもとりあえず、昨夜は編集の仕事に応募してみたし、出版というものに藁にもすがる思いがあるのは否めない。

    2023.5.11
  • 2023.5.9

    腕時計の日にちの部分が一つずれていたので直した。ということは今月はこれまで日付を一日遅く認識していたのかもしれない。そうだとしても、それによって大きな問題は生じていないので問題ない。たぶん4月が30日であったことを考慮に入れてなかったのだろう。その「時間のずれ」に気づいたのも、今日仕事場に来客がきたからだ。その人に会話のなかでいつここを去るのかをきいて、その流れで腕時計の日付をちらっとみて、間違った日付をその人に伝えた。間違っていることをその人が教えてくれた。時間のずれは修正された。

    その来客というのも、中年のアジア系の女性だった。息子が大学に通っているという。息子が大学生活で不安を感じていて云々と、私も「大学一年あるあるだな」と聞き流し、働いている対話プログラムを紹介した。ちょうど年度末のレポートを書いていて、ちょうどそこに対話がどのようにコミュニティをつくるのかみたいなことを書いていたので、いろいろちょうどよかった。話していると、その人は日系3世で、父の家族がちょうど西海岸に住んでいて、戦時中の強制収容所に入れられていたという。その人自身もロサンゼルス出身で、ちょうど私の卒論のテーマのひとつが日本人のアメリカへの移民だったので、話が盛り上がった。けっきょく、銃規制の話になって、70年代にNRAが改編してからいろいろおかしくなったというような。

    ともかく、それでびっくりした、というか自分ではぜったいやらないだろうなという強い感情を抱いた瞬間があった。それは政治の話になってその人が、いつでも見知らぬ他人に自分の政治思想について話すということを言った。つまり、空港でもとなりに白人男性がいたら、気候危機がこんなにも迫っているんですよ、と話しかけて、すると男性も「それは知らなかったよ」と返すらしいのだ。あとは、店で店員がレジ袋に買った物を入れようとしたら、「このプラ袋が温暖化に繋がるから、わたしはいつもマイバッグを持ち歩いているんです」とやさしく言うらしい。正直、私はそれを聞いてびっくりした。よくそんなことができる、と。それはその人の度胸を褒めている側面もあれば、その人の出しゃばりさに驚いている面もあった。よくそんなことを、思考の滞りなく、見知らぬ人に言える、と。そうやってある人は恥ずかしいと思われていることも平気でやり遂げるからすごい。でも羨ましいわけでもない。

    最後にその人は「アジア人女性っぽくないよね」と笑いながら去っていった。私も「アジア人のように」愛想笑いしたが、正直どうしたらいいかわからなかった。今日はすべてがちょうどだったのに、ちょうどよい返事ができなかった。私とその人の時間がずれた。

    2023.5.9
  • 2023.5.4

    もう5月も4日が経った。仕事も一段落して、あとはまとめの段階だ。けっこう疲れが溜まっていたことがわかるように何時間も寝れてしまう。そういう身体になってしまっているから、身体に身を任せ(という表現も奇妙だけど)したいことをする。時間があるときにしかできないことをする。そういう意味でも、さっきまで自分の書きたいことについてnoteに書くために文章を書いていて、久しぶりの感覚でうれしい。夜が暗くなっていきながら、それでもどんどん文字数が増えていく快感を味わった。そしてInstagramからは少し離れ(といってもブラウザでみてはいる)、Instapaperというアプリで気になったネットの記事を取りこんでは読む。今朝はソウルの現代アートについての記事や韓国のフェミニズム文芸について読み(最近、自分のなかで韓国が盛り上がっている)、夕方は大江健三郎を読んだことない人のためのおすすめについて、松浦寿輝と星野太の対談を読んだ。

    2023.5.4
  • 2023.5.1

    4月には30日しかないことは「西向く侍」という語呂合わせで覚えた。西向く侍という表象はいかにも江戸末期の孤高の武士をイメージさせるのはわたしだけか。5月には31日あって、6月には30日しかない。5月というあいだに挟まれた月。30に1を足したその過剰さをどう楽しむか。

    そういえばツイッターと同様にインスタグラムやフェイスブックなど各種SNSのアプリを携帯から消したら、ずいぶんと時間を費やさなくなったと思う。もちろんブラウザからみることはできるが、ツイッターはともかく、インスタグラムは圧倒的に使い勝手が悪い。開くたびに同じ投稿が最初に出てくるし、ろくに投稿もできない。これが自分にとってはいいのだ。強制的に効率や使いやすさから離れないと、自分がどこかに行ってしまう。この世は便利な世の中になってしまった。日本は便利な国だから云々という文言をみるけど、それはある程度は正しいことは認めるとして、それは誰にとって便利で、どうして便利なのかを考えなければ思考停止に陥ってしまう。どうしてこの世は便利なのか?という問いは、この世は誰にとって便利なのか?という問いに言い換えられる。それはほんとうに私たちにとって便利なのだろうか。

    便利から逃げることは不便に近接してみることでもある。時間を費やさなくてもよいことに時間を費やすということは便利さがなければできなかったことだ。皮肉なことに、不便であることは便利なことがあるからこそ、それと比較して不便だとわかる。それでも後退してみる。そういえばレコードで音楽を聴いてなかったな、とか、グーグルマップを使わずに歩いてお気に入りのお店を見つけてみよう、とか、その時間のかかるプロセスには偶然的な出会いが内包されているのかもしれない。それに期待して、裏切られるかもしれないけど、それでも時間をかける。

    5月には31日ある。半端な1日くらい不便さに費やしてもいいのではないだろうか。晴れと雨が回転するような一日だった。

    2023.5.1