旅行から帰ってきた。旅行から帰ってくると(土産と)土産話が求められるから、旅行ではいろんなことをして、それらを言語化したほうが、土産話を周りにするうえでもいいと思う。どれだけ「表面的にはつまらない出来事」をおもしろく語れるのかということにもかかっている。それは自分の身に起きたことをある種誇張して、「自分なりの」解釈を組み込むということだ。たとえば、「この美術館のこの展示をみた」ではまったくもってつまらないから、それをまえの話の文脈にあわせて、「そういえばこの前この展示をみて、それって今の話とつながっていない?」というような感じで自分の解釈をぶちこむ。それは力技だ。でもそうしないと土産話はただの小学生の絵日記になってしまう。いや、絵日記のほうがおもしろいのかもしれない。世界を生きるうえで自分が評価されるおおくの尺度のうちのひとつが「おもしろさ」であれば、わたしはその土俵くらいでしか勝負できないと勝手に思っているので、それが社会において大きなウェイトを占めていないときでも「おもしろさ」というものを追求してしまう。
優しい文章を書きたいと思う時がある。優しい文章を書ける人は「優しい文章」ではなく「やさしい文章」と書くだろう。それはたんにひらがなと漢字の量のちがいという話ではなく、文章から滲み出てくる「やさしさ」のことだ。優しい文章はかならずしも私に鋭く突き刺すようなメッセージをおくることはないけれども、それは私のなかに染み込んでくる。そのような文章に憧れる。だからといって、私の文章は人になにか突き刺すようなメッセージを伝えているかというとそれはちがうのだが。でも、私は「おもしろい文章」は書きたいと思う。人々を笑わせたり、そうでなくてもなにかに興味を持ってもらったり、普段考えないなにかについて考える機会を設けたり、そういう文章が書きたいとずっと思っている。それは尊敬している先輩が出版社で働いていたときに、本という媒体を通じて人々の思考に影響を与えたいという願望があると言っていたように、私は文章を書くときに、それによって思考する、信の安定を脅かすようなものを書きたいと(無意識的に)考える。「優しい文章」は読者の思考に影響を与えないというとそうではないのだが、感触がちがう。「突き刺す」と「染み込む」。
「突き刺す」と「染み込む」はたんに時間の問題なのだろうか。突き刺すことは一瞬でできるけど、染み込ませるには時間がかかる。西村紗知さんの論考を思い出す。西村さんはいろいろ僕のnote記事にいいねしてくれたりしている優しい方なのだが、彼女のお笑いについての批評には切れ味がある。この論考で西村さんがテーマにしているのは「痛みを伴うお笑いが無効となったいま、どんなお笑いが可能なのか」という答えが簡単に出そうだが、じつはそうでもない問いだ。日本のお笑いやバラエティというカテゴリにおいて、ドッキリやツッコミという暴力的な表現をもって笑いをつくろうとする行為を私は小さい時から幾度と目にしてきた。たとえば、ウエストランドがM-1グランプリで優勝したとき、似た問いが各方面から提出された。それは私と同じような環境で生まれ育ってきた人たちが「傷つけない笑い」というものが可能なのかという共通の問いをもって、それを自分自身に問うようなしかたで。つまり、バラエティにおける「痛みを伴う笑い」が学校におけるいじめにつながっているとしたら、私にはどういう責任があるのか。
「お笑いが暴力的な表現でもって成し遂げたかった目的は、今となっては必ずしも暴力的な表現を必要としないのかもしれない。あるいは、今現在暴力的な表象を用いるお笑いの表現は、かつてとは違った位相にあるのかもしれない。」それはそうなのかもしれない。「優しいお笑い」というものがあれば、その可能性について考えてみるしかない。それを西村は男性ブランコにみてとり、私は自分にみてとってみる。とくに「優しくなりたい」という願望があるわけではないが、斉藤和義が「やさしくなりたい」で歌ったように、私は「愛なき時代に生まれたわけじゃない/キミといきたい キミを笑わせたい」という欲望に駆られているのかもしれない。時代のせいにするわけでもなく、いや時代のせいにして、「愛」というものを「おもしろさ」というものと考えなければ、実践しなければ。