2022.8

  • 2022.8.31

    8月の終わりに、というタイトルでこの文章を始めようとしたが、なんだかかっこつけているようで嫌だったのでやめた。夏とはそんなふうにあっけなく、そっけなく終わるものだ。そして、私のもとにも夏の終わりは静かに近づいてきた。夏の終わりになると、やらないといけないことリストみたいなものがあって、それをすべて達成しないと充実した夏を過ごしたとは思えないような感じがする。数年前、「平成最後の夏」が話題にあがったときもそうだった。でも、そのときに書いたことを繰り返すかもしれないが、それはただ夏であっただけなのだ。

    ただ夏であっただけ。それは素朴なかたちでそこにあった。だから、これをやり残したといって後悔するつもりはない。いや、多少後悔はしているし、より有意義な時間の過ごし方はいくらでもあったと思うが、私はこの時間の過ごし方を選んだだけで、ほかのことはほかのときにやればいいと思う。夏にやらなくてもいいものはある。でも、夏にやらなければならないこともある。それはかき氷だし、花火だし、スイカ割りだ。幸運にも花火をすることはできたものの、そのほか2つのことは達成できなかった。正直に言って、かき氷の記憶といえば、昔家にあったかき氷機に冷凍庫で製氷された氷をパンパンに詰め、ジーンという音を鳴らしながら氷を削り、そこに市販のイチゴシロップを少しかける。お椀の底に残る、氷が溶けたあとのピンク色の水は美味しいとは言えないが、それでも飲み切る。スイカ割りも母がスイカを買ってきて、家のベランダで一回やったのをなぜか鮮明に記憶している。そのとき、スイカを割るのに使った棒はどこにあるのだろうか。

    そんなふうに「夏の思い出」というものは、たとえオシャレなマンゴーがたっぷり乗っている天然氷を使ったかき氷をわざわざ山奥にまで行って食べるよりも、家でつくるかき氷のほうがよっぽど記憶に残るし、夏という感じがする。砂浜でのスイカ割り(これ自体やったことがあるのかも忘れた)よりベランダでやったほうがなぜか覚えている。私にとって、夏は家のなかで起きているものだった。

    というものの、今年の夏は外に出ていた時間が長かったように感じるのはなぜか。もちろん長野や京都、東京にいたのはそうだが、あまり家で夏を感じなかったほうが大きい気がする。部屋はエアコンが常にといっていいほどかけっぱなしだったので、熱帯夜のむさ苦しい夜にタオルケット一枚で寝相悪く寝ていた自分があまり想像できなくなってきた。それはエアコンを常にかけないといけないほど、夏が暑くなってきたのはそうだし、暑い中テレビをつけて高校球児をみることもなくなった。なにより紙の貼ってある宣伝用のプラスチックのうちわが街からなくなったのはどうしてだろう。夏がなくなっていく。

    でも、「古き良き夏」のようなものがあったとして、それを取り戻そうとはならない。年をとるごとに夏の感じ方が違ってくるだけなのだろうと。夏自体は変わっていないのだ。そうなぜか自分に言い聞かせる。自分が理想とする夏をかたちづくって、それに執着することはしたくない。来る夏は変わるし、変わっていてほしいとも思う。でも、それが気候変動のせいとかであれば、話は変わってくる。それ抜きに考えても、来年は違う夏が来てほしいとは思う。しかし、私の「古き良き夏」のイメージ–それはイチゴシロップのかき氷だし、ベランダのスイカ割りだ–を捨てることはないとも思う。

    夏は私の一番好きな季節ではない。どちらかと言うと、より嫌いなほうだ。私は夏の終わり、つまり秋に心を膨らませる。しかし、それは夏の気だるさ、汗ばみ、疎外感がないと秋らしさが出てこない。秋が秋らしくいるためには夏が夏らしくしていないといけない。そんなわけで、夏を夏らしくするために、私は変わりゆく夏らしさを毎年ただ過ごすだけだ。夏はただそこにあっただけで、これからもありつづけるだけなのだから。

    2022.8.31
  • 2022.8.30

    昨日の続き。岡田拓郎の「ギターをギターらしく鳴らすこと」はギターから「ギターらしさ」という真理を開陳すること、つまりギターを正直に鳴らすことについて書いた。そして、正直であることは言葉を変えれば、可傷的であることであって、それはバトラーいわく身体の常態であり、連帯の条件でもある。ここから話を進めたい。

    岡田はアジカン後藤のポッドキャストで、「声」や「息の成分」がその音楽の質感を決めるうえで着目していると語っている。たしかに、たとえばアルバム『Morning Sun』ではほぼすべての曲においてボーカルである岡田の息継ぎまでもが鮮明に聴こえる。ボーカルの息継ぎの音は通常ポストプロダクションの時点で消されるが、『Morning Sun』ではそれが反対に強調されている。当たり前だが、人間は息を吐くことで声を出す。そして、息を吸ってまた異なる息を吐く=声を出す。同じように、人間は息を吸って吐くことで生きている。『Morning Sun』の息継ぎの音は生きていることを示すものでもある。

    岡田はポッドキャスト内で「息の成分」が距離を演出するものであるとも語っている。息づかいがよく聴こえるということはその分だけ生の存在もより近くに感じることができるということでもある。カントは「崇高」という概念を論じるときに、崇高と感じる対象と鑑賞者との距離に重要な役割を与えた。たとえば、ある美術作品が崇高であると感じる条件に、その作品と鑑賞者とのあいだにある一定の距離が保たれていることがある。逆に言えば、『Morning Sun』におけるボーカルの息継ぎの音は、その息が象徴する生の存在と鑑賞者との距離を近づけるものだから、鑑賞者はその生の存在に崇高を感じない。感じるのはただそこに崇高ではない生が存在しているということだ。このとき、鑑賞者はその崇高ではない生の存在からなにを感じとるのか。

    昨日も述べたように、生きている身体はすべて可傷性にさらされている。生は常に傷つけられうるということだ。鑑賞者が生を象徴する息づかいの音から、またその距離の近さからその生の可傷性を感じるといってもいい。なるほど、対象と鑑賞者との一定の距離が、鑑賞者がその対象に崇高を感じる条件であるのは、距離によってその鑑賞者が崇高を感じる心理的安全性が担保されるからである。息づかいの音を近くで感じるということは自らをより危険な状況に陥れることでもある。

    対象との距離によって担保される「心理的安全性」は、対象との距離の無化によって感じられる「可傷性」とは相反する概念だと考えられる。心理的安全性という概念は傷つきやすい環境を退けることで安全性を得ようとする。しかし、バトラーが面白いのは、連帯であったり共同体であったり人々が「安全に」暮らせる環境を「可傷性」という概念を土台に思い描こうとしている点だ。だが、バトラーの論の「面白さ」はバトラーのあきらめの態度にある。というのは、共同体を「傷つきやすさ」によって構築することはある意味で、その共同体に属したとしても傷つく可能性が残るということだ。少なくともそれは私を「共同体に属したい」という気持ちにはさせない。そこまで共同体というものは地に堕ちてしまったのだ。

    最後に話を岡田拓郎にもどすと、岡田自身サポートギタリストとしてさまざまな共同体の一端を担っている。有名なところではROTH BART BARONや柴田聡子、優河のサポートをしている。また、プロデューサーとしてはSouth PenguinやTaiko Super Kicksの作品を担当した。サポートギタリストという意味では、彼はバンドの正式メンバーではないので、東浩紀の言葉を借りれば、彼はいろんなミュージシャンとゆるいつながりを持ちながら各方面で活動している。そういう意味では、岡田は一定の距離をとって、自身の心理的安全性を確保している。それは彼の「森は生きている」時代の「可傷的な」空間とは対比をなす。しかし、彼の作品づくりに対する態度はずいぶん可傷的なものだ。「ギターをギターらしく鳴らすこと」や息継ぎの音を現前させることは真理や生を傷つきやすさにさらけだすことことだ。それを感じる私たちも傷つきやすい。音楽を通じた鑑賞者との近くて可傷的な関係は新たな共同体の道を指し示す。

    新しいアルバムが楽しみだ。

  • 2022.8.29

    文学プラスの韻踏み夫の「耳ヲ貸スベキ!――日本語ラップ批評の論点――」とエクリヲの勝田さんの「フィクションの感触を求めて」を再読していたら、やはり批評を書かなければという気持ちになり、岡田拓郎論を再開する。昔書いた「身体の偶然性」や「日本語ロックの引き裂かれ」などのフレーズを振り返りながら、結局なにをどう書きたいのかという問題に陥った。ほんとうに岡田拓郎について書きたいのか。それとも別になにかあるのか。いや私は彼の音楽の「正直さ」について書きたいと思った。言い換えれば、「生」であること、だ。

    柴崎祐二によるインタビューを読み返していたら、岡田がこんなことを言っていた。

    だれが言い出したか知らないですけど、「ギターは時代遅れ」みたいなムードありますよね。そうするとかえってメラメラする性分なので(笑)、ギターをギターらしく鳴らすことには注力しました。

    一見するとふつうだが、私は最後の文を理解するのに時間を要した。「ギターをギターらしく鳴らすこと」とはどういうことか。逆にギターをギターらしく鳴らさないということはどういうことなのだろうか。「ギターらしさ」というギターの本質を想定している段階で、この言明はなかなか保守的なものだが、岡田はギターらしさが必要だったのだ。ここで思い出したのは、固有性という保守的な概念に拘泥しつづけたハイデガーだ。ハイデガーが『技術への問い』で主張していたことは、簡単に言えば技術(テクネー)は本来、真理を開陳することだったのにもかかわらず、現代技術はそれを阻んでしまっているということだ。「本来」という言葉もハイデガー的だが、ものの真理=本質をうまく引き出すはずの技術の「本質」は『技術への問い』の最後で芸術(とくに詩学)にまで拡張されるのだ。

    岡田のある意味では保守的な言明は、ハイデガーによる技術の定義と合致している。技術があるもの(自然)に内在する力を開陳するものなにであれば、「ギターをギターらしく鳴らすこと」はギターというものに内在する「ギターらしさ」という真理を開陳するテクネーなのである。一言で言えば、ギターを鳴らす技術が肝要なのだ。さきほどの「正直さ」の話にもどれば、ギターの正直さを前へと出していくのが技術なのだ。

    正直であることは善いことだとされることは人間誰しもわかることだろう。もちろんフーコーを一度でも読んだことがある人はそうではないかもしれないが、少なくともケアの倫理の世界において「正直である」ことは重要になってきている。バトラーの『アセンブリ』において、「可傷性(vulnerability)』という概念が問題になる。可傷性とは、傷つくかもしれないという身体の潜在的な状態である。身体がいつ傷つくかはわからない。けど、傷つくかもしれないことは知っている。身体がその不安定な状態に開かれていることは強さでもある。バトラーはここから連帯の可能性を探るわけだが、話をもどせば、「正直である」ことは可傷的であることと隣り合わせだ。眠たくなってきたから、続きはまた今度。

    2022.8.29
  • 2022.8.26

    私はいつも耳栓をつけて寝る。音に敏感だから、少しの物音で起きてしまうからだ。だから、飛行機はむろん、少しでも音がするところでは本当に眠くない限り、寝ることはない。しかし、寝るときは暗くて、耳栓は小さいから、すぐになくなってしまう。だからこそ、気づく。多くの耳栓は蛍光色になっていることを。だが、耳栓が蛍光色だとしても少しの光がないと意味がない。わざわざ耳栓を探すために明かりをつけたくないから、必死に手で耳栓を探すのだが、多くの場合それは失敗に終わる。

    買い物のときに耳栓を買おうと、友人がウォルマートのアプリを使ってどこに耳栓があるか探してくれた。Y1コーナーにあるとアプリが教えてくれたので行くと、そこは草刈り機が売っていた。耳栓はそこに当然のようにあった。とりあえず6個入りのものを2箱購入した。日本ではあまり馴染みがないが、アメリカの多くの家は庭があるので、草刈り機があったりする。それはけっこう音がするから、耳栓は草刈り機を使う人のために置いてあったのだ。安心して寝るためではなく、草を刈るために。

    私はあまり庭という概念に親近感を抱かない。それは人生で一度も一軒家に住んだことがなかったからだ。日本ではずっとマンションかアパートで、庭なんてなかった。幼稚園も川崎のインターナショナルスクールに通っていた(そこで学んだことで今でも覚えているのはスペイン語で1から10を数えることと遊ぶための庭がなかったことだ)し、高校まで草の生えている「庭」にいることはなかった。つねに庭は他人のものだった。小学生くらいのときだろうか。逗子にある親戚の家に行ったときに、その家の大きな庭を鮮明に記憶している。網には伊勢海老が焼かれ、私は親戚にコーラがうんぬんと言いながら遊ばれている。逆にいえば、それしか記憶がないくらい平凡だった。それより私は縁側の内側が好きだった。優しいおばあちゃんのいるそのフェミニンな空間が。

    縁側は私の耳栓だった。しかし、縁側なんて外の空間(その外も家の/土地の一部である)がないと存在しない。夏の風物詩は私が住む家にはなかった。ベランダはあったが、縁側などという風情なものはなかった。風鈴がカランと鳴り、うちわで仰ぎながら縁側でぐったりするという夢風景はなかった。私は暗い中で縁側を手で探っていた。

    2022.8.26
  • 2022.8.25

    アジカンのGotchがやっているポッドキャストに岡田拓郎が出演していることを知り、聞いている。

    South Penguinの話になり、ヒップホップについて触れられたとき、岡田は「声」や「息の成分」ということを言っていた。そこで他の出演者がアルバム『Morning Sun』が「声」にフォーカスしていたことについて言っていて、そうだと頷いていた。そういえば、この日記を先月再開したのも、岡田拓郎論を書くためのスタートダッシュとして日記に期待を託していたところがあった。

    そこで書きかけの文章を振り返ってみたら、昨年の9月に書かれていた。もうすぐ1年が経つ。岡田の新しいアルバムもあと1週間でリリースされる。

    https://hitujiotoko22.bandcamp.com/album/betsu-no-jikan

    「質感のきめ細かさ」に近づくために、声にフォーカスする。息を吸って吐くことを音楽に反映することは「生」や「身体」を信じていることでもあると思うということを書いていたから、もし批評に「答え合わせ」があるのなら、正解なのかもしれない。でも、答え合わせをしたくないし、「正解」を知ってしまうと、批評が限定されてしまう。批評にはそういう矛盾がある。批評する対象のことをより深く知ってしまうと、批評が自由でなくなる。それは批評における身体性による制約なのかもと考えながら、ポッドキャストの最後の曲、odolの『三月』を聴く。

    2022.8.25
  • 2022.8.24

    昨日、おとといのフィールド・レコーディングとナラティヴの話の続きを書いたものの、しっくりこなくて結局ボツにした。どうしてボツにしたかというと、結論が最初から予想できたものだったからだ。こういう散文を書くということは最初から結論が決まっていて、その結論にたどり着くために論証するということはしたくないし、それは論文でやればいい。ここでは結論は決めずに、むしろ結論が変わっていくことを楽しむように書くことをしたいし、それをここでのポリシーにする。書くことの楽しみはそこにあるから。もちろんこの変化する楽しみが論文を書くときにはまったくもってないというわけではない。実際、noteの「オーバーライティング」についての文章でも書いたように、論文の書き始めで書きたいと思っていることがその書き終わりで書けているかというと、経験上そうではないことのほうが多い。なぜなら、変化しなければ「書く」意味がないから。ぼくにとって「書く」ことはだからこそ重要な位置を占めるし、だからこんなことをほぼ毎日30分かけてやっている。

    今日の話に戻ろう。今日はなにを考えていたのだろう。大学での対話プログラムを運営しているから、対話について考えている。正直、対話は最近のトレンドになっているとは感じる。トレンドということは少なくとも多くの人がそれが大切だと感じているという証拠ではあるが、多くの人が大切だと感じているからといって、それじたいが大切であるとは限らない。昨日も奨学金のエッセイをみている高校3年生とズームしていたら、それこそその高校生のエッセイのテーマが対話だった。対話は会話や雑談とは違い、なにか高次の次元にあるものだとふつうは考える。しかし、そんなにきれいなものなのだろうか。対話はなんにも解決しないし、なんだか心地悪く終わるケースのほうが多い気もする。しかし、その心地悪さをなんとか肯定したい気持ちもわかる。実際、ぼくはここまでずっと後者の立場だった。それこそ、たとえば対話というものを通じて、自分のことを改めて考える機会がつくられるのであれば、それは自分にとっていいのではないか。でも、自分のことを考えることができる人が対話していればよいものの、そう簡単にはいかない。自分のことを振り返ることもせず、相手のことをねじ伏せようとする人もなかにはいる。そんなときに自分のことを考えることに価値をおいているわたしたちは、そんな人に対してどうすればいいのか。

    ここで念頭においているのは、というよりもおかざるをえないのはトランスジェンダーの人、とくにトランス女性をめぐることの話だ。トランスフォビアの人に対して、対話を通して「理解」を深めていくのか、それとも対話を拒否して、または対話をあきらめ、当事者の安全性を重視するのか。対話は危険で心地悪い。対話なんてしないほうがいい。そこまではいかないものの、そんなことも言われ始めている。対話についての対話が必要なくらいだ。そういう意味で対話はトレンドになっている。

    対話プログラムを運営している者として、どうしても対話を促進している立場にたたざるをえない。もちろん「危険な対話」を促進しようとしているわけではないし、きちんと過去の経験と膨大な方法論の蓄積のもとやっていることだ。しかし、同時に理解しないといけないのは対話というものじたいがリスクを含むものであるということだ。そのリスクがないと自分のことを改めて考えることが難しい。リスクがないと変化することは難しい。書くことが変化であるとすれば、書くことはリスキーなことなのかもしれない。しかし、書くことは言うこととは異なり、一呼吸おくことができる。そこにデリダがパロールではなくエクリチュールを重視したわけがみえてくる。

    対話することは言うことであるから、どうしたら書くことがその助けになりうるだろう。書くことが重要な位置を占める僕が対話プログラムを運営していることはこういう意味で重要なのかもしれない。

    2022.8.24
  • 2022.8.22

    さっきまで柳沢英輔の『フィールドレコーディング入門』を読んでいた。すごくおもしろい。というのも、音とその背景にある文脈の読み取りかたによって多様な音の解釈が可能であることをフィールド・レコーディングという概念が克明に記しているからだ。フィールド・レコーディングが「記す」と今書いたが、この表現も著者によれば、あながち間違っていないようだ。もともとフィールド・レコーディングは写真(photography)と同じようにメディアを通じて時間と空間的な現実を切り取るゆえ、フォノグラフィー(phonography)、つまり「音を書くこと」と言われていたらしい。そういう意味ではフィールド・レコーディングは書いているといってもいいにではないか。音を書くこと。それは音楽批評でもなく、採譜でもない。

    フィールド・レコーディングには常に録音者の介入が存在する、と著者は強調する。録音することは語ること、ナラティブでもある。それはなんらかの立場をとらないといけない状況に録音者はいるということだ。いや、たとえ録音者でなくても、わたしたちは立場をとらざるをえないことがたくさんある。わたしたちは常に録音者なのだ。わたしは今日なにを録音していたのだろう。

  • 2022.8.21

    昼前に起床し、カフェに行って短歌でも書こうと思い立った。外は霧のような雨が降っている、というよりも空気中に粒が漂っているさまで、これは傘がなくても外出できそうだと思い、行動するにいたった。雨上がりのようなその天気は多少晴れていて、日差しが出ていて、心地よいものだった。10分弱歩いてカフェに向かう。いつもの牛乳の(というのも、いつもそうか店員に聞かれるからだ)アイスチャイラテと、まだなにも腹に入れていなかったのでクリームチーズのローズマリーベーグルを注文する。チャイラテは甘く、好みの味。ベーグルの方もクリームチーズがたっぷり入っていて、チーズを口につけながら頬張る。ローズマリーの香りとともにチーズの芳醇なまろみがおいしい。

    そこで短歌を一首思いつく。

    ベーグルって茹でてから焼くんだって午前三時のシナゴグはアンニュイ

    シナゴグ(シナゴーグ)とは、ユダヤ教徒の礼拝所のことだ。ユダヤ人の友人に、ベーグルはユダヤ人が発明したということをまえに聞いて、驚いたことを思い出した。調べてみれば、ベーグルは乳製品や卵を使わず、ただ小麦粉を塩水で練ったものだから、宗教的な食べ物である理由がわかる。

    そんなベーグルを食べながら、そのパサパサとした食感をチャイラテで喉に流しこむ。約2時間の滞在で多くの短歌を書き出した。まだ完全でないものもないが、とりあえず書き出そう。

    昨夏の暑さは直径8センチの手持ち扇風機の体積でした

    分断が大変お求めやすくなり値札だけみて静かに去る僕

    八月の雨が止むを得ず急停車する場合がございます

    星条旗の下で我思う 空はえぐく広い 我は誰

    現代短歌にとってのギターのCコードとはなんでしょうか

    白人に追いかけられる夢を見た だからなんだに追いかけられる

    もしも指先からチャイティーが出せたらわたしがすべてを解決しよう

    静かにVan Goghと発音してみる 孤独とはそういうものだろう

    2022.8.21
  • 2022.8.20

    一日中眠かった。土曜日だったので、一日中寝てもよかったのだが、なにか一日中寝ることに少しの背徳感を抱いてしまう。それでも、何度寝もした。気持ちよかった。でも、その少しの背徳感をなんとかしたかったので、来週に控える読書会で扱う本の章を読み直す。ジェイムソンの名前も出てきて、おもしろい議論だった。読書会は楽しいし、たまにエクリヲ(大学2年の秋学期、休学していたときに手伝っていた出版団体)の人たちと話すのも心の支えとなっている。やはり同じような興味関心をもっている人たちと一緒に時間を過ごすことは必要なことだ。

    そのあとはiPad上でPDFに注釈を書き込めるアプリを探していた。いつもOneDriveを使っていて、無料だしまあまあ使いやすいから、けっこう使っているのだが、動作に限界を感じていた。だから、有料でもいいからノートアプリを入れたいと思い、名前は知っていたGoodNotesとnotabilityのどちらかを入れようと思った。とりあえず両者ともアプリを入れるのは無料だったので入れてみて、試してみて、使いやすい方に課金しようと思った。まずはnotability。アプリをはじめて開くと、横画面で動画が流れ始めた。最近のアプリはここまで進化しているのか、とまるで私の父親のように感心した。適当にファイルを読み込んで、試しに注釈を書いてみたが、とくに問題はない。ただひとつ気になったのはOneDriveで書きこんだ注釈をnotability表示するとずれてしまっていた。こればかりは気になってしまい、いろいろ調べてみたが、解決策はとくだん見つからなかった。GoodNotesのほうも同様にダウンロードした。さすがに動画は流れなかった(これは私の評価基準ではなかったので、どうでもよかったことだ)が、注釈はずれずに表示することができた。これが決め手となり、980円払い、アプリを購入した。

    こういう使いこむようなアプリに対して、わたしはあまりお金を使うことをいとわない。たとえば、パソコンでタブをショートカットキーだけでウィンドウの画面いっぱいに大きくしたり、左半分・右半分に寄せたりするアプリがあって、それは当時120円したが、すごく便利だと思い、即座に購入した。いまでも意識せずにショートカットキーを押してしまうので、他の人のパソコンでも同じことをやってしまう。いまこれを書いているのもUlyssesというアプリで、学生料金で6ヶ月1000円以上は払っている。でも、ほぼ毎日使うアプリだから、まったく後悔していない。

    一方で、課金して後悔しているものもあって、それは結局使ってみないかぎり、それが自分にとって使いやすく、かつ継続的に使うのかがわからないから、多少は後悔しても仕方がないとは思う。でも、この世界はお金を使うところは使わないと生活が便利になっていかないから、使うところは使い、使わないところは使わない術をみにつけないと、資本主義社会から真に取り残されてしまう。でも、資本主義の最大の恐怖は、誰も取り残さないということだ。なるべく多くの人を資本に取り込もうとしている。なるべく多くのものを貨幣によって交換可能なものにし、それをすべての人間に対してまで拡張しようとしている。すべての人間が交換可能性によって存在意義が感じられうるという点では、言い方は悪いが、すごくインクルーシブな考え方でもある。

    わたしはあまりお金の使い方が上手ではないと言われたり、それを自覚したりすることがある。好きなものを好きなタイミングで使ったり、人におごった結果、自分のお金が少なくなったり、結局はお金の管理ができていないということだ。それについては自分でも管理ができていないな、と思う部分はあるし、だからといって消費者金融に行くまでのレベルに達したことはない。だが、恥ずかしながら人から、それも家族からお金を借りたことはある。もちろん借りたお金は返すのが鉄則とそれこそ母に言いつけられていたから、借りたあとは必ず返した。

    でも、思うにこんなきれいな紙切れを管理しろ、と言われてもなかなか難しいし、買いたいものだったり、したいものは突然出てくるもので、それにはこの紙切れが必要なのだ。言い訳がましいかもしれないが、すこしでもマルクスをかじった人であればわかる話だと思う。それこそ、今日でデヴィッド・グレーバーの『負債論』をパソコンにダウンロードしたばかりだ。社会に抗うために、明日はグレーバーでも読もうかな。

    2022.8.20
  • 2022.8.18

    渡米してもう2週間が経とうとしている。なにかがたりないと感じていたら、どうも2週間もお酒を飲んでいなかったということに気がついた。仕事終わりにスーパーに行き、ちょっと値段は張るが、美味しそうなブルーチーズとサラミ、そして赤ワインとIPAビールを8缶買った。家に帰り、ささっとジャーマンポテトをつくり、ビールで一杯やる。明日も仕事はあるが、関係ない。やっていければ、なんでもいい。そんなムードだった。しかし、ビール一缶で気持ちよく眠たくなり、少しだけ横になった。そしたら、急に将来のことに不安になった。そういえば、きのう軽く大学院について調べていたが、どこもあまりしっくりこなかった。まずもって、自分のやりたいこと(批評、表象文化論)を大学院で学ぶ必要があるのか、という問いにぶち当たった。そして、海外の大学院を調べるなかで、やはり私は日本語で書くことがしたいのかもしれないことを考えた。海外の大学院に行ったら、日本語で文章を書くことはほぼない。では、日本の大学院なのかといえばそうでもない気もする。

    そんなことを迷っていたら、不安が募ってきた。不安という感情はどこから来るかわからないから、それがさらなる不安を呼び起こすのだ。そんな原因がわからない感情と対峙しつづけても意味がないけど、私はこうやっていつも向き合いつづけている。しかし、同時にこうした不安をとりあえずは人にぶつけてみてどうなるのか試している節もあったりする。大学に入りたての友人にとりあえず言ってみたり、同じような境遇にいる人に相談したり、他者ならどうにかしてくれるのではないか、という微かな希望を手綱にしている。当たり前だが、そうやって私は他者とともに生きている。それは他者の決断が自分の決断に–それも十分に–なりうることを示唆している。

    私には、他者から影響を受けることを肯定しながら、それでも他者とは同じようなことをしたくないという欲望があるところがあって、それがごちゃ混ぜになって、他者から影響を受けることを肯定することじたいが、他者とは異なることをしている、と認識している。つまり、他者と同じことをしたくないから、他者から影響を受けようとしている、というねじれた、いやこじれた欲望を抱えている部分がある。それはそれで興味深い矛盾なのだが、これがけっこう先言った不安と結びついているのではないかとふんでいる。人とちがうことをしたいという欲望はいつも自分のやっていることの下地にあり、それは予想以上に私に影響をあたえている。批評というものも周りの人を見渡してもやっている人はなかなかいない。でも、批評をやりたいということは他者の欲望なのだとラカンは言っているからそうなのだろうが、そこでも一味変えたいと思うし、それは大学院選びにも直結している気がした。だが、反対に考えば、矛盾があるからこそ、その矛盾している二つの要素を自分の都合がいいように使いわけることもできる。たとえば、大学院に行くという選択は他者からの影響が大きいが、大学院で勉強することは他者とは違うというように。矛盾をただ矛盾と言って非難するのではなく、現実の問題の考え方に使っていく。そういう心構えもたまには必要な息抜きだろう。

    2022.8.18