2022.8.25

アジカンのGotchがやっているポッドキャストに岡田拓郎が出演していることを知り、聞いている。

South Penguinの話になり、ヒップホップについて触れられたとき、岡田は「声」や「息の成分」ということを言っていた。そこで他の出演者がアルバム『Morning Sun』が「声」にフォーカスしていたことについて言っていて、そうだと頷いていた。そういえば、この日記を先月再開したのも、岡田拓郎論を書くためのスタートダッシュとして日記に期待を託していたところがあった。

そこで書きかけの文章を振り返ってみたら、昨年の9月に書かれていた。もうすぐ1年が経つ。岡田の新しいアルバムもあと1週間でリリースされる。

https://hitujiotoko22.bandcamp.com/album/betsu-no-jikan

「質感のきめ細かさ」に近づくために、声にフォーカスする。息を吸って吐くことを音楽に反映することは「生」や「身体」を信じていることでもあると思うということを書いていたから、もし批評に「答え合わせ」があるのなら、正解なのかもしれない。でも、答え合わせをしたくないし、「正解」を知ってしまうと、批評が限定されてしまう。批評にはそういう矛盾がある。批評する対象のことをより深く知ってしまうと、批評が自由でなくなる。それは批評における身体性による制約なのかもと考えながら、ポッドキャストの最後の曲、odolの『三月』を聴く。