2022.8.24

昨日、おとといのフィールド・レコーディングとナラティヴの話の続きを書いたものの、しっくりこなくて結局ボツにした。どうしてボツにしたかというと、結論が最初から予想できたものだったからだ。こういう散文を書くということは最初から結論が決まっていて、その結論にたどり着くために論証するということはしたくないし、それは論文でやればいい。ここでは結論は決めずに、むしろ結論が変わっていくことを楽しむように書くことをしたいし、それをここでのポリシーにする。書くことの楽しみはそこにあるから。もちろんこの変化する楽しみが論文を書くときにはまったくもってないというわけではない。実際、noteの「オーバーライティング」についての文章でも書いたように、論文の書き始めで書きたいと思っていることがその書き終わりで書けているかというと、経験上そうではないことのほうが多い。なぜなら、変化しなければ「書く」意味がないから。ぼくにとって「書く」ことはだからこそ重要な位置を占めるし、だからこんなことをほぼ毎日30分かけてやっている。

今日の話に戻ろう。今日はなにを考えていたのだろう。大学での対話プログラムを運営しているから、対話について考えている。正直、対話は最近のトレンドになっているとは感じる。トレンドということは少なくとも多くの人がそれが大切だと感じているという証拠ではあるが、多くの人が大切だと感じているからといって、それじたいが大切であるとは限らない。昨日も奨学金のエッセイをみている高校3年生とズームしていたら、それこそその高校生のエッセイのテーマが対話だった。対話は会話や雑談とは違い、なにか高次の次元にあるものだとふつうは考える。しかし、そんなにきれいなものなのだろうか。対話はなんにも解決しないし、なんだか心地悪く終わるケースのほうが多い気もする。しかし、その心地悪さをなんとか肯定したい気持ちもわかる。実際、ぼくはここまでずっと後者の立場だった。それこそ、たとえば対話というものを通じて、自分のことを改めて考える機会がつくられるのであれば、それは自分にとっていいのではないか。でも、自分のことを考えることができる人が対話していればよいものの、そう簡単にはいかない。自分のことを振り返ることもせず、相手のことをねじ伏せようとする人もなかにはいる。そんなときに自分のことを考えることに価値をおいているわたしたちは、そんな人に対してどうすればいいのか。

ここで念頭においているのは、というよりもおかざるをえないのはトランスジェンダーの人、とくにトランス女性をめぐることの話だ。トランスフォビアの人に対して、対話を通して「理解」を深めていくのか、それとも対話を拒否して、または対話をあきらめ、当事者の安全性を重視するのか。対話は危険で心地悪い。対話なんてしないほうがいい。そこまではいかないものの、そんなことも言われ始めている。対話についての対話が必要なくらいだ。そういう意味で対話はトレンドになっている。

対話プログラムを運営している者として、どうしても対話を促進している立場にたたざるをえない。もちろん「危険な対話」を促進しようとしているわけではないし、きちんと過去の経験と膨大な方法論の蓄積のもとやっていることだ。しかし、同時に理解しないといけないのは対話というものじたいがリスクを含むものであるということだ。そのリスクがないと自分のことを改めて考えることが難しい。リスクがないと変化することは難しい。書くことが変化であるとすれば、書くことはリスキーなことなのかもしれない。しかし、書くことは言うこととは異なり、一呼吸おくことができる。そこにデリダがパロールではなくエクリチュールを重視したわけがみえてくる。

対話することは言うことであるから、どうしたら書くことがその助けになりうるだろう。書くことが重要な位置を占める僕が対話プログラムを運営していることはこういう意味で重要なのかもしれない。