日記

  • 2024.5.7

    自転車で大学に向かっている途中、急にペダルが効かなくなり、最寄りの自転車屋さんに寄ろうとしたが、あいにく定休日だったので、少し歩いたところにある自転車屋に行って修理してもらう。歩いて区役所まで行って、奨学金応募用の住民票を取った後、バスで大学へと向かう。

    あまりお腹が空いていなかったので、コンビニでサンドイッチと飲み物、カットフルーツを買って研究室でいろいろ印刷したりスキャンしたりコピーをとったりする。カットフルーツは甘いのだが、安心して食べられないというか、4日も持つのはたぶん保存料が使われているんだろうな、と思いながらもそれでも食べる。

    クィア映画の授業は菅野先生が来てくださり、自転車とブラックフェミニズムについての講義は非常に刺激に満ちたものだった。授業後に挨拶したら、ぜひ研究室にいらっしゃいと言われたので、行きたいと思う。パソコンにSTOP GENOCIDEのステッカーを貼っているんですね、と京都タワーで毎週スタンディングしている人に話しかけられた。うれしい。

    夜はズームで手伝っているギャラリーの勉強会。初回だったので自己紹介と近況報告。基本的にはAさんがずっと喋っていた。それを聞いているのは楽しい。が、疲れた。

    とはいっても、最近は精神的につらい、までは行かないけど、ため息をつく日が多い。一つ一つの出来事をとってみたら、それぞれにきらめきがあるのだけど、なにかが欠けていて、それを埋めたい欲望に駆られている。それは孤独と呼べるのかもしれない。それとももっと根深いのか。夜もとくになにかをする気も起きないし、だから結局は映画をみて、時間が流れていく。京都に移ったとて、劇的に生活や私という人が変わるわけではないという単純な事実に向き合っている期間、なのかも。

    2024.5.7
  • 2024.5.6

    カフェで映画の授業の課題であるエッセイを終わらせる。18時くらいに雨が降る予報なので、その10分前にカフェを出て帰ってから続きを書く。久しぶりのゴールデンウィークだったけど、ゴールデンウィークという感じがしなかった。まあ毎日がゴールデンだから、仕方がない。

    2024.5.6
  • 2024.5.5

    カフェで作業。映画分析のアウトラインまで完成させて、奨学金の諸々、そしてパソコンの充電が切れてからはジェイムソンを読む。アイスコーヒーとたまごサンド。付け合わせのサラダが好き。緑の野菜を食べれる貴重な機会。休みだというのに、みんな勉強したり作業したりしている。

    帰って仕事をしてから、山口一郎のNHKスペシャル。うつ状態がひどくなったのが、うつ病だという構図に納得する。けっこう最近のことを話しているので、ふつうに心配になるけれども、音楽をそれでも続けたいというのは一路さんの宿命なのかも。それにしても久々にテレビを見た。

    古本市で買った飯島洋一の『現代建築・アウシュヴィッツ以後』がおもしろい。証言の不可能性、エコロジーとナチズム、庭について。

    2024.5.5
  • 2024.5.4

    monade contemporaryに寄って、Aさんと話そうかと思ったら、案の定いなかった。かわりにMさんが電話をつないでくれて、少ししゃべった。とくにすごく重要でもない話だったので、べつによかったのだが、Aさんのドジな一面を見れてよかった。リヨンの大学院に通っている人がちょうど一時帰国していて、ギャラリーにいるということを聞いていたので、その人ともしゃべった。リヨンでは19世紀末の象徴主義絵画の女性表象を研究しているらしい。19世紀末のフランスというと印象派がやはり「印象」的だけども、象徴主義というのもあるらしい。その人も将来なにになるかどうか迷っているという。ぼくもそうだ、と言ったら、話が少し噛み合った。人に興味がないらしいけど、思った以上に話は続いた。

    大阪・十三の第七藝術劇場で『悪は存在しない』と『PASSION』。『悪は存在しなし』はとにかく最初から美しく、カットやカメラワークに終始見惚れていた。ぶつ切りなカットとか人物のいない自然のみのショットとか、石橋英子の音楽とともに見せられると、妙に美しく感じる。話もユーモラスなところも多かったが、最後の2、30分くらいで事態が急変し、なんだかよくわからなかったので、もう一度みたいとなる。個人的にショッキングだったのはその直後にみた『PASSION』で、それは『親密さ』よりももっと過激なストーリーと、突拍子もなく挿入されるもはや不気味なシーン。でも、やはり相変わらず濱口にとって、どちらの作品にも共通するのは、暴力や悪というものが愛となる可能性を失いたくない、という一種の希望であり、その希望は彼にとっては男性性と離して考えることができないことだということ。『悪は存在しない』における男性性はより現代的というか、巧という妻を失った「地方」の夫(それはもちろんドライブ・マイ・カーにおける家福を彷彿とさせる)と中年独身男性で仕事に打ち込んできた「東京」の高橋の対比によって描かれる。『PASSION』では三人の男性と二(三)人の女性をめぐる「浮気」によって前景化される。それは友人も言っていたように、ホン・サンスー映画のように拗れた男性性をテーマにしていて、加害と被害の二項対立では語れないことがある、というメッセージという意味で、パク・チャヌクの復讐三部作にも似ている。濱口映画を韓国映画と比較してみれているのも、映画の授業をとっていることのひとつのかいだと思う。

    2024.5.4
  • 2024.5.3

    みやこめっせでやっている古本まつりで本を六冊購入したあと、コメダでクリームコーヒーとピザトーストを頼んで、奨学金のあれとかnoteの文章をウェブサイトに移したりとかする。帰って、来週の授業のためにホン・サンスーの『女は男の未来だ』を観て、全然共感しないと思う一方、そういう男性の加害性が自分にもあるというか、そういう意識を感じた。書くプラのレポートを書いていたら、3時半になっていた。

    2024.5.3
  • 2024.5.2

    KYOTOGTAPHIEを見にいく。ヴィヴィアン・サッセンの写真はあまり期待していなかったけど、意外と好きな写真も多く、女性の身体と毒キノコをコラージュしたり、大胆に身体を切り離したり、写真の上に絵の具でストロークを描いたり。人物が写っていない写真も良いものもあったりして、でも身体はすべて匿名で 、人を素材として扱っているところに危うさがあった。映像作品は正直よくわからなかった。たぶんキュレーション上、映像作品を入れないと「だれてしまう」と思ったのだろう。サッセンの写真であれば、そんなことはないと思う。京都新聞ビルの地下一階は坂本龍一のAMBIENT KYOYOがやっていたときも行って、やはり音は良いと思った。

    ルシアン・クレルグの写真はフランス南部のジプシーを写したもので、とくにジプシーダンスとギター音楽、そしてジプシーギタリストのマニタス・デ・プラタをフィーチャーしている。写真としては正直うーんという感じだった。ギャラリーも思ったより狭く、写真がぎゅうぎゅう詰めになっていたのが少し残念。

    ヤノマニ族を撮影したクラウディア・アンドゥハルは挑戦的な作風ながら人類学的な視点もあり、かつ活動家として活動しているユダヤ人の作家で、2階のドキュメンタリー映像を見ていて面白かった。サッセンとは大きく違い、写している人物の名前がしっかりとタイトルに反映しており、匿名性は排除される。同じように、芸センのジェームス・モリソンの『こどもたちの眠る場所』は極度にキュレートされた部屋のように仕切られた空間に、数十人の子供たちの肖像写真と部屋の写真が写される。名前と年齢、そして簡単なプロフィールが書いてある。パレスチナ人の難民の子供とイスラエルの厳格なユダヤ教信者の子供を向かい合わせて配置したり、ウクライナとロシアの子供(それも後者は空軍志望の)をこれも向かい合わせたり、でもうまいことそれぞれの「顔」に着目するように写真というメディアが促す。意図が透けて見えたけど、良い展示だと思った。

    写真にはテキストはいらない、と石内都が言っていたことを考えていた。展示にはカメラ(それも良い一眼レフ)を首にかけていた人が多い印象だった。良い写真の良い写真を撮って何になるのかはよくわからないが、たぶん写真を撮るのが好きな人がけっこう来ていたイメージ。みんなテキストは必死に見ているんだけど、肝心の写真は数秒で通り過ぎていくので、写真を見る体力がSNSなどによってなくなっているのではないか、とおじさんばりの感想を抱いたりした。

    途中、眠くなって、意図せず錦市場近くのカフェでアイスコーヒーとプリンを頼んだ。プリンにはカットされたオレンジが添えてあった。

    2024.5.2
  • 2024.5.1

    もう5月かあ、と思う。毎月そう思う。昼、横になりながら、サファリの開いていたタブを消化していく。川口隆夫のインタビュー、増山士郎のインタビューなど。起きたあとすぐは集中力がある。たぶん朝早く起きていろいろできたほうがいいんだろうな。朝型とか夜型とか、ただ慣れの問題ではないと思うんだけど、変えられないこともないんだと思うけど、無理に変えようともしないわけで、けっきょく変わらない。

    コロンビア大学にいる友人が心配で、でも連絡すると大丈夫らしいので、ほっと一安心する。アメリカの大学、しかも社会運動で有名な大学にいた身とすれば、なんとなくアメリカで起こっていることを追っているのだけど、なぜ今さら?ということを思ってしまう。やっていることはめっちゃ重要だし、これによって警察による暴力がまた明るみに出て、それはそれとしてやばいのだけれども、やはり多少のやるせなさはあるし、どちらかというとやっている人たちはパレスチナへの連帯を、自身が享受してきたシオニズムから脱しようとしている解毒のようなことにも見えてしまったりもする。でも、ぼくはぼくであまり最近パレスチナのことを追えてなく、それはそれで苦しいのだけど。

    2024.5.1
  • 2024.4.30

    リサーチプログラムのための応募フォームが17時に締め切りだったので、昼に急いで、いつも作業するカフェに行って、文章を書き上げる。仕事が始めるギリギリの時間までやって、オンラインの授業中、こっそりと文字数を削る。そして、時間内に提出できた。

    夜は友人が家に来て、飲んだ。

    2024.4.30
  • 2024.4.29

    友人とともにブランチに出かける。少々おしゃれなところで、着いたときは列ができていたのだけど、せっかくなので並ぶことにした。新幹線の指定席の時間はとっくに過ぎていたが、ひかりの自由席なら座れるということで、ゆっくり待った。並んでいるときにお水を持ってきてくれたお兄さんがやさしいことで盛り上がった。ブランチも案の定美味しく、量もけっこうあった。エスプレッソトニックもさっぱりで満足。

    2024.4.29
  • 2024.4.28

    泊まっているところの友人とそのパートナーとギターやら尺八やらを弾きながら、昼前を楽しむ。そのままピザ屋さんでお昼。なかなかピザが来ないので、お腹がすいて、スライス一枚じゃ足りないと思ったけど、ちゃんと腹八分目になった。

    友人と別れて、上野へ。暑いし、人が多い。ゴールデンウィークだ。アメリカにいたときはゴールデンウィークという概念がなかったので、5年ぶりのゴールデンウィークを過ごす、といってもそれらしいものはしないが。

    国立西洋美術館の現代アートの展示は仕方なく行くような心持ち。あんまり期待はしてなかった。とにかく物量が多かった。もっと物量を少なくしてほしい。最近の展示いろいろそうだけど、見るものが多すぎて、一つの作品に集中することもままならない。そりゃ人々は秒で作品の前を通っていく。そして、周りについている言語・テキストが多い作品が目立った。作品それじたいで伝わる強度のあるものが作れなくなってしまったのであれば、それは由々しき事態なのかもしれない。石内都も「写真に言葉はいらない」とインタビューに答えている。あと、本気の人と適当な人の差が激しい。でも、最後の坂本夏子やパープルームの梅津さんの絵画は素晴らしかった。梅津さんのはクレー味がある。3時間いて疲れた。

    空いている数少ない上野のカフェでホットケーキとアイスコーヒー。700円。買った『この国の芸術』を読みながら、時間を潰す。マユンキキのインタビュー。そして、演劇WS。

    2024.4.28