KYOTOGTAPHIEを見にいく。ヴィヴィアン・サッセンの写真はあまり期待していなかったけど、意外と好きな写真も多く、女性の身体と毒キノコをコラージュしたり、大胆に身体を切り離したり、写真の上に絵の具でストロークを描いたり。人物が写っていない写真も良いものもあったりして、でも身体はすべて匿名で 、人を素材として扱っているところに危うさがあった。映像作品は正直よくわからなかった。たぶんキュレーション上、映像作品を入れないと「だれてしまう」と思ったのだろう。サッセンの写真であれば、そんなことはないと思う。京都新聞ビルの地下一階は坂本龍一のAMBIENT KYOYOがやっていたときも行って、やはり音は良いと思った。
ルシアン・クレルグの写真はフランス南部のジプシーを写したもので、とくにジプシーダンスとギター音楽、そしてジプシーギタリストのマニタス・デ・プラタをフィーチャーしている。写真としては正直うーんという感じだった。ギャラリーも思ったより狭く、写真がぎゅうぎゅう詰めになっていたのが少し残念。
ヤノマニ族を撮影したクラウディア・アンドゥハルは挑戦的な作風ながら人類学的な視点もあり、かつ活動家として活動しているユダヤ人の作家で、2階のドキュメンタリー映像を見ていて面白かった。サッセンとは大きく違い、写している人物の名前がしっかりとタイトルに反映しており、匿名性は排除される。同じように、芸センのジェームス・モリソンの『こどもたちの眠る場所』は極度にキュレートされた部屋のように仕切られた空間に、数十人の子供たちの肖像写真と部屋の写真が写される。名前と年齢、そして簡単なプロフィールが書いてある。パレスチナ人の難民の子供とイスラエルの厳格なユダヤ教信者の子供を向かい合わせて配置したり、ウクライナとロシアの子供(それも後者は空軍志望の)をこれも向かい合わせたり、でもうまいことそれぞれの「顔」に着目するように写真というメディアが促す。意図が透けて見えたけど、良い展示だと思った。
写真にはテキストはいらない、と石内都が言っていたことを考えていた。展示にはカメラ(それも良い一眼レフ)を首にかけていた人が多い印象だった。良い写真の良い写真を撮って何になるのかはよくわからないが、たぶん写真を撮るのが好きな人がけっこう来ていたイメージ。みんなテキストは必死に見ているんだけど、肝心の写真は数秒で通り過ぎていくので、写真を見る体力がSNSなどによってなくなっているのではないか、とおじさんばりの感想を抱いたりした。
途中、眠くなって、意図せず錦市場近くのカフェでアイスコーヒーとプリンを頼んだ。プリンにはカットされたオレンジが添えてあった。