2月の欠損、3月の満足。2月の前半は日本にいて、後半はアメリカにいた。そして、いま。卒論の第2章を(ほぼ)書き終え、ほっとしている。昨日、今日と2日連続、8時間ずつをかけ、終わらせた。気持ちがいい。ずっと座りっぱなしだったので、夜の住宅街を軽く散歩した。玄関の明かりがついている家がちらほら。アメリカの住宅は夜になっても明かりを消さないところも多い。私が住んでいる家もそうだ。なんでだろう。でも、なんか消すと危ない気がする。やはりアメリカにいると、夜はとくに少しだけ怖いと感じる。しかし、あたりは死んだように静か (dead silent) だ。上を見上げれば、星がくっきりと見える。田舎ならではの光景だ。星座はよく知らないが、紙では見たことのある形が空に映っている。というか、ある。
アメリカだと日本以上に星座のことを気にする人が多い。星座占いは、日本では朝のニュースでみて、一喜一憂するくらいで、一日の途中で忘れてしまう。アメリカでは星座占いはホロスコープと呼ばれ、Sun、Moon、Rising の三つの星座の種類のようなものを皆それぞれ覚えている。私は一昨日くらいにこの話題が出たので調べたが、もうすでに忘れてしまった。私は大切なことを忘れて、無駄なことを覚えてしまうタイプなのだ。しかも、それらの星座の種類は占いや個人の性格を判定するために使うのではなく、他人との関係を判定するために使う。例えば、みずがめ座とおうし座の相性が良いとか、やぎ座とさそり座は友達になりにくいといったように。アメリカの人のほうが他人のことを気にするのかもしれない。
2月は欠損している。28日で終わる唯一の月だから、他の月より短い。しかし、うるう年には1日増える。でも、それでも足りない。3月は満足している。別れの季節だとはいうものの、2月の物寂しさに比べたら、ずいぶんマシなものだ。それも私自身、3月に別れ、そしてそれに伴う苦しみを経験したことがないから、こういうことが言える。それは私が多くの人と深い関係性を構築しない、あるいはできないからだし、それでいいと思っている。ただ、それは3月が「別れの季節」だと主張してくるやつらがいるかぎり、なにか嫉妬のような感情が生み出す。なにか「別れの季節」という言葉には純粋な、清廉潔白ななにかがある。それは「青春」と呼ぶこともできるだろう。私は別れに嫉妬している。純粋な、清廉潔白な別れを。さよならを伴う別れなど数少ない。だからこそ、3月は満足に満ちている。満ち足りていることに満ちている。
3月には期待したほうがいい。欠損した日付をカレンダーから破って、進んでいく3月は清々しい。そう祈るばかりだ。今日くらいはハッピーな曲を聴いてもいいだろう。