友達が「将来どうするの?」と聞いてきたので、今日は大学院を調べていた。ある程度目処はつけなくてはいけない時期なのに、まだどこに行きたいかも決まっていない。アメリカだとさすがに学費が出せないから、ヨーロッパか日本なのかな、と勝手に思っているが、単にアメリカの大学院が学費が高いから行けないと思っているというよりは、奨学金に応募することが億劫で、もう4年少し住んでいるアメリカに飽きてきたことが重なっているが、それを学費が高いという理由でまとめている。説明することが面倒くさいときだってある。どこに行きたいのかというよりは何をやりたいのかもまだはっきりしていない。大学院に入学するということはなんらかの事柄を学びたい・研究したいという意欲があるから入学するのではあるものの、わたしはなにをやりたいのだろうか。もちろん興味あることはたくさんあるし、それは知っているのだが、それをこのリストの中から選べ、と言われるとなかなか選ぶのには時間がかかる。日本では表象文化論と呼ばれるものに興味があるということで一応検討はついているが、これと同等のものは海外にはない。あるとしたらCultural StudiesやCritical Theoryという呼称になるらしいが、カルチュラルスタディーズといえば、吉見俊哉がやっているような社会学の一分野、もしくは派生分野になるから、それも違うのかなと思ったりもした。
ロンドンにあるゴールドスミス・カレッジは現代美術が強いと調べていたら出てきたので、詳しく調べてみるとたしかに魅力的なプログラムがあった。フルタイムであれば、1年間の修士プログラムであるとはいえ、ロンドンにある美術館や現代美術ギャラリーを楽しめる絶好の機会でもある。学費もアメリカの大学の半分、けっして安いとはいえないが、まだチャンスはある。奨学金のチャンスもどこかに落ちているかもしれない。しかし、どんどん調べていると、ウィキペディアのサイトにSara Ahmedも教鞭を執っていたことが書いてあった。Ahmedといえば、「クィア現象学」で有名な作家・研究者で、最近邦訳されたLiving a Feminist Life (邦題は『フェミニスト・キルジョイ: フェミニズムを生きるということ』)も書いている。ネットサーフィンという語が示すように、流れに乗ってAhmedの経歴を調べていると彼女のホームページにこう書いてあった。
I resigned from my post at Goldsmiths in protest at the failure to deal with the problem of sexual harassment.
(https://www.saranahmed.com/bio-cv)
訳:「私はセクハラの問題の対処に[ゴールドスミスが]失敗したことに抗議する一貫として、ゴールドスミスでの教授職を辞任した。」
この文だけではよくわからなかったので、調べてみると過去にゴールドスミスがセクハラ問題を隠蔽していたというニュース記事が出てきた。ぼくはそれ以上読まなかったからあまり詳しいことは知らないが、ゴールドスミスへの興味が薄まるのに、記事を全文読む必要もなかった。Ahmedはこう続ける、「私がセクハラ問題について語るとき、私は1、2人の悪役について、もしくは悪党や組織的な悪について語っているのではない。私たちはセクハラが学術的な文化として常態化され一般化されていることについて語っているのだ」(https://amp.theguardian.com/education/2017/dec/08/universities-forced-to-confront-sexual-harassment-problems)。
ゴールドスミスだけでなく、高等教育全体がセクハラを許容する文化を醸成している。高等教育が家父長制を支持し、資本主義を支持し云々という話は何度も聞いたことがあるが、ここまで現実味を帯びてこの事実がわたしのもとにやってきたことはない。なぜならこれはゴールドスミスという現代美術を学ぶのに絶好の環境を一瞬にして、わたしの目の前で壊してしまったからだ。それだけではない。わたしが反対するイデオロギーや行動を支持し黙認している組織に入ることができるのか。あえて身を投じるということもできるかもしれないが、いまはそれを考えられる余裕はない。Ahmedが「私」を「私たち」に拡張したように、わたしもこう言いたい、わたしたちは倫理的な選択を迫られているのだ、と。