2023.10

  • 2023.10.31

    身体は疲れていた、よく眠れないまま朝8時のオンライン授業のために目を覚ました。そのあと、横になり再び眠ろうとするが、浅い睡眠になる。起きて文章を書こうとするけど、あまり書けない身体になっている。とりあえず最低限のやらなければいけないことをやり終える。また横になる。ここ最近買った本が棚のうえに積み重なっているので、一冊取り出して読んでみる。中井久夫の『徴候・記憶・外傷』はスッと頭のなかに入ってくる。中井久夫の文章が私は好きだ。『樹を見つめて』と同じように、アカシアの木の話から始まる最初の論考も中井の頭の中で起きる対話になる。なんと面白いことか。難しいけどおもしろいという、私が難しい文章にはじめて出会った原体験を思い出す。あれは帰りの新幹線で磯崎新を読んだときのことか。読むことの快楽、それは久々に疲れた身体のなかに染み込んできた。私はもっと本を読まなければならない。もっと本を読みたい。本をずっと読んでいられる環境をいまも探し求めている。

    2023.10.31
  • 2023.10.30

    ずっと休んでいた。とはいえ、やることはやった。けど、やることをやるときはやはり時間を決めてそのあいだにやったほうがいい。文章の推敲とかいつまでもできてしまう。

    2023.10.30
  • 2023.10.29

    インスタグラムをみていると、仮装をした人たちがなんだか楽しそうにしている。ハロウィンだ。ハロウィンという行事も日本では最近といってもここ10年くらいで台頭したが、アメリカでは昔からある行事だから、この季節になるとみんな仮装して大学の授業に出ていて、それはその空気が楽しかった。しかし、私がわざわざお店に行って仮装のための服を買うことはなかった。たいていは普段は着ない服を着る口実として使っていたから、タンスに入ったスーツを着たりしていたのを思い出す。そういえば、今日の原泉での受付でもスーツを着たお客さんが二人来ていて、一人は市議会議員で、もう一人は「パフォーマンスとして」スーツを着ていた。その人は「趣味で」同人誌のデザインをやっているらしく、結束バンドを使って虫をつくったものやデザインしたポスターを見せてくれた。たぶん15分くらい話したと思う。そういった普段話し相手がいない中年男性を駅の本屋でも見かけた。閉店間際の本屋で、いつもの店員さん(ほぼ毎日いるんじゃないかというくらい見かける)に対して、黒いマスクをしたダンディと言ってもよい中年男性が一方的に話していた。話を聞いてみると、滑舌があまり良くなくマスクもしているので、声が聞き取りづらいものの、「オリオン座流星群」という言葉は聞き取れた。5分くらい永遠と一方的に話している一方で、店員さんは一点を見つめ微動だしない。店員さんがどう思っているのかは知らないけど、僕だったら嫌だと思って、適当に気になった本を店員さんのところまで持っていくと、男性は話をやめた。支払いを終えた後、僕は何を思ったかその男性に「もうすぐ閉店ですよ」と呼びかけた。しかし、彼はまた聞き取りづらい声でなにかを僕に言ったのち、再び店員さんに話し始めた。もう僕も疲れていたので、閉店間際の本屋を去ったけど、なんだか店員さんには申し訳ないことをしたなと思った。帰宅するまでの間、歩いているときも、結局は自分の行動が自分の気持ちを店員さんに押しつけていたのではないか、と買うつもりもなかった本を手に悶々としつつ帰路についた。

    2023.10.29
  • 2023.10.28

    仕事のために書く文章に費やす労力とは思えないほどの時間を費やして文章を書いている。やはり仕事という割り切りがつけない、というか、やはりいい文章を書かないと気が済まないから、文章を書くことを仕事にすることは相変わらず難しいことを感じる日々だ。そして、それは必ずしも悪いことだとは思わない。それに付き合いながらやっていくしかない。

    2023.10.28
  • 2023.10.27

    静寂のなかに身を置く、ことが少なくなっている。いま、静寂を独り占めしている。

    塾の授業を2時間、原泉のミールズのミーティングを1時間、その1時間後の授業の合間に金土日しか開いていないリバーブックスに行く。店主と話す。東京の出版社で働きながら、本屋の店主もやっているという。9月にオープンしたばかりでまだいろいろ整っていない部分が見受けられたけど、それはそれでよい。ビールサーバーもあって、今後はビールも提供できるようにするらしい。本だけでは稼げないという現実がある。気になったいた、くどうれいんのエッセイ本を買う。そして、職場に戻り、1時間授業。そして、帰宅してシャワーを浴び、また2時間オンライン授業。なかなかハードスケジュールだったけど、間があんまり空いていないほうがコスパがよいと思っている自分がいる。お風呂にはもうちょっとちゃんと入りたかった。

    アマゾンで買ったリップとミューマガの最新号が届いていた。後者と今日買った本は明日の電車で読むつもり。

    2023.10.27
  • 2023.10.26

    自転車で20分くらいのところにららぽーとがあって、そこには普段は行かない。というより、ショッピングモールという場所があまり得意ではないというか、あまり興味がないので行かない。だから、行くときはなにか目的があるときになる。今日は近くではそこでしかやっていない映画をららぽーとにある映画館に観に行った。岩井俊二の『キリエのうた』だ。3時間ある映画で4時前から始めるので、そのまえにららぽーとにあるコメダに入って、アイスミルクコーヒーを頼み、読書会のためにジェイムソンを読む。10数ページだけなのだけど、読んで理解するには2時間強必要なので、ジェイムソンを読むときは、カフェで机があるところでメモをしながら読むようにしている。それも英語で、しかも難しい英語(英語が難しい、もそうだし、ジェイムソンの英語が難しいもある)なので、時間をかけて集中して読む必要がある。

    『キリエのうた』は奇妙な映画だった。ストーリーじたいはあまり奇妙ではないのだけど、その描かれ方だったりモチーフの取り上げ方が奇妙だった。たとえば、映画の中心を占めるのが、なっちゃんが「フィアンセ」であるキリエ(姉)を震災で失うストーリーなのだけど、ある種不必要なまでにそれが描かれる。それは現実的に震災という出来事が社会を変えてしまったということは大いにあるとして、それが映画で描かれる中で震災によってキリエ(妹)が言葉を失う契機になったことをここまでの時間を費やして説明することに違和を感じた。もちろんそれだけでなく、もうひとつ震災を通じて描写されようとしたのは、なっちゃんが受験生のとき、キリエ姉との間に子供を授かったことへの自責の念だろう。しかし、妊娠におけるジェンダーの力関係を認識することがこの映画でどのような意味をなしていたかはわからない。この映画で「女であること」や「結婚(詐欺)」、「家族」、「貧困」、「路上であること」といったテーマが通底していることはわかるので、もうちょっと考えてみたい。黒木華が『リップヴァンウィンクルの花嫁』以来の先生役を演じていたのは胸熱だったし、アイナ・ジ・エンドの歌声も好きだった(しかし、その歌声は簡単にはカタルシスにはならない)。

    2023.10.26
  • 2023.10.25

    カフェで作業。東京芸術祭用の記事を約5000字。もともと書いていたものに付け加える形で書いていったので進んだ。ジェイムソンの読書会が明日あるのだけど、まだ1ページも読んでいない。明日読まねば。

    明日、静岡のシネギャラリーに行って映画を観ようかと思ったけど、やめることにした。時間とお金の兼ね合い。かわりにより近くの映画館で『キリエのうた』を観ることにする。

    カフェで作業していると、どこかで集中力が切れるので、数時間ののち、近くの公園に移動する。公園は最近になって人工芝が設置されて、市の事業として週末の夜はキッチンカーが集まったりしているのをバイトの帰りに見たりする。それにしても私はこうして沼津に身を置いているわけだが、べつに沼津である必要はまったくなくて、小学校から高校までをここで過ごしていたからという理由にすぎない。それも理由にはならないけれども、沼津に落とされた、投げられたという感覚はある。でも、いまも沼津に暮らしていて、多少の愛憎をむけている。そのことについて考える。公園では小学生たちが遊んでいるなか、これも東京芸術祭の別の企画のために短い劇評を書いている。

    AWミーティング。

    最近は仕事でものを書くことが多いけど、一段落したら仕事ではない書きものをしたい。

    2023.10.25
  • 2023.10.24

    いろいろとまとめの作業。いろいろやったけど、それを一回振り返らないといけない。急いではいけない。今やったことが自分にとってどういうことだったかということを自分に染み込ませる。でも、そればっかりやっていては次に進むこともできないので、何を優先するのかが大事になる。こんなことを言って、そんなことを真面目に考えているわけではないけど。

    けど、古いものが終わったら新しいものを思いつくものだ。とにかくつくって、それを言ってみる。そうするとおのずと人が集まってくる。もちろん人を集めることも必要だけど。

    くだらないことが世の中にはたくさんあるけど、Bialystocksの「Winter」の歌詞を口ずさめばいい。「くだらないくだらないくだらない」

    2023.10.24
  • 2023.10.23

    自分の中では休む1日だったのだけど、盛りだくさんだった。まずは東京駅まで向かって、その目の前でやる東京芸術祭のマハーバーラタを鑑賞する。ビルが周りを囲むながら、青空の下で、しかも東京駅の目の前であの祭宴のような劇が行われていることが夢的で、その事実に気を取られてしまう瞬間が何回かあった。劇自体は能舞台のような正方形のステージと左袖にある小さな舞台で構成され、浄瑠璃で台詞を言う太夫が登場人物のかわりに発話する部分が斬新だった。音楽も和楽器からスティールパンからコンガなどのアフリカの打楽器まで、幅広い文化を吸収し、それこそ劇もマハーバーラタという古代インドの叙事詩の一部をリメイクしたのだから、それは日本のお祭りであり、サンバであり、アフロビーツであり、動物たちの祝宴であり、なにがなんだかわからないからそれがおもしろい。随分とよくできた劇で、さすが宮城聰だと思った。宮城さんも開演前、写真撮影は構わないけど、短時間で頭より下で撮って、という観覧上の注意をそれぞれのブロックにいる観客に言っていたり、自ら客を歓迎したり、すごくホスピタリティのある人で、そのホスピタリティはこの劇がもつ狂気とは真反対だった。

    興奮冷めやらぬまま、六本木に行く。なぜ六本木かと言うと、こうやって東京に一人で行くときは必ずといっても美術館やギャラリーに行くのだけど、月曜日であるということはどこも閉まっているということだ。そんな中でも月曜でも開いているので有名なのが森美術館である。僕は個人的には現代アートの美術館のなかでもあまり好みではないのだが(それは主にキュレーションの面である)、エコロジー特集ということですこしは関心あるので行ってみることにした。作品それぞれをみていくと興味深いものもいくつかある(例えば、ハンス・ハーケの写真群、アピチャッポンの映像作品、野焼き・お好み焼きの作品)のだけれども、どうもそのフレーミングが下手というか、どんどん次に行ってしまう感覚がある。全部で4つの「章」に分かれていたのだが、最後の章ではなんだか疲れてしまって、それは寝不足も多少関係しているけど、ある種のパフォーマティブな仕草に疲れてしまった。たとえば、この展示では壁が前回の展示からそのまま同じ壁を用いることで環境に配慮しました云々ということが書いてあるのだけど、それはこの展示だからやることで、他の展示ではやるわけがない。そんなリベラルな仕草というか、それは現代アートの美術館としてまったくもって反制度ではないし、反権力でもない。作品もキュレーションもそういうものがあったりして(もちろん立地も含めて)、そういう意味で六本木に行く機会が結構あっても森美術館に足を運ばないのだろう。

    文喫でマーク・フィッシャーの『k-punk』を買うと、店員さんがフィッシャーいいですよね、と言ってくれた。

    新宿で待ち合わせして、小学校の同級生で高校まで同じだった友人に日記本を渡す。サインを書かされたので、いつかすこしは有名になろうと思った。

    三鷹のSCOOLへ。同じ建物にあったはずの中華そば屋さんがなくなっていたので、マックで軽く夕食を済ませる。携帯を充電できるところがマックくらいしか思いつかなかったので、とくに行きたくなかったけど、充電がなくなるよりはよかった。SCOOLでは、柴崎祐二さんの新刊刊行イベントで柴崎さん、佐々木敦、つやちゃんの3人の話を聞く。伏見瞬さんも来ていた。ポップミュージックはすべてリバイバルするというある種の仮説にはけっこう納得したというか、おもしろい見方だと思った。本も購入した。東京芸術祭のサコッシュも2冊の本でパンパンになった。終電があるので、質疑応答の途中で抜けないといけなかったけど、いろいろ勉強になったし、批評を書きたい、音楽をもっと聴きたい気持ちになった。佐々木さんがいうように、柴崎さんはどんな音楽も好きだということもわかった。

    2023.10.23
  • 2023.10.22

    2023.10.22

    原泉でパフォーマンス。哲学サロン「沈黙の哲学」と題されたパフォーマンスで私は眠る人として曽布川さんがソシュールやブランショといった哲学者たちにとっての沈黙について話すのを知覚せずにその横で眠っていた。眠っていたといっても、ほんとうに寝てはいない。眠ることと寝ることは違うことなのかもしれない。そして、タイマーが鳴ると曽布川さんがやがて沈黙し、私は起き上がる。戯曲には起き上がるが、「表象の共時性は回復されていない」と書いてある。つまり、知覚する対象と私の知覚の時間性が噛み合わないから、りんごはりんごとして認識されない。言語は成立しない。ここからは完全にインプロビゼーションだ。といっても、私は眠っている間、どうしてもこのあと何をやるのかを考えてしまったし、それを考えることをやめようとしてもそれをやめようとすることを考えてしまう。知覚できないことを知覚してしまう、そんな生のジレンマがそこにはあった。このパフォーマンスについては、また別途他のところで書こうと思うけれども、ひとつ言えることはこのパフォーマンスをすることには極度のエネルギーが必要だということだ。エネルギーといっても肉体的に疲れたというよりは、頭痛のような(実際、パフォーマンスの後、頭痛がした)気だるさ、いや額の後ろに感じる倦怠の塊。それは肉体を晒すことの代償として、死への漸近への代償として支払われる。ここから私の身体は何か劇的に変化したという気がするのだ。

    2023.10.22