2023.10.22

2023.10.22

原泉でパフォーマンス。哲学サロン「沈黙の哲学」と題されたパフォーマンスで私は眠る人として曽布川さんがソシュールやブランショといった哲学者たちにとっての沈黙について話すのを知覚せずにその横で眠っていた。眠っていたといっても、ほんとうに寝てはいない。眠ることと寝ることは違うことなのかもしれない。そして、タイマーが鳴ると曽布川さんがやがて沈黙し、私は起き上がる。戯曲には起き上がるが、「表象の共時性は回復されていない」と書いてある。つまり、知覚する対象と私の知覚の時間性が噛み合わないから、りんごはりんごとして認識されない。言語は成立しない。ここからは完全にインプロビゼーションだ。といっても、私は眠っている間、どうしてもこのあと何をやるのかを考えてしまったし、それを考えることをやめようとしてもそれをやめようとすることを考えてしまう。知覚できないことを知覚してしまう、そんな生のジレンマがそこにはあった。このパフォーマンスについては、また別途他のところで書こうと思うけれども、ひとつ言えることはこのパフォーマンスをすることには極度のエネルギーが必要だということだ。エネルギーといっても肉体的に疲れたというよりは、頭痛のような(実際、パフォーマンスの後、頭痛がした)気だるさ、いや額の後ろに感じる倦怠の塊。それは肉体を晒すことの代償として、死への漸近への代償として支払われる。ここから私の身体は何か劇的に変化したという気がするのだ。