2022.8.31

8月の終わりに、というタイトルでこの文章を始めようとしたが、なんだかかっこつけているようで嫌だったのでやめた。夏とはそんなふうにあっけなく、そっけなく終わるものだ。そして、私のもとにも夏の終わりは静かに近づいてきた。夏の終わりになると、やらないといけないことリストみたいなものがあって、それをすべて達成しないと充実した夏を過ごしたとは思えないような感じがする。数年前、「平成最後の夏」が話題にあがったときもそうだった。でも、そのときに書いたことを繰り返すかもしれないが、それはただ夏であっただけなのだ。

ただ夏であっただけ。それは素朴なかたちでそこにあった。だから、これをやり残したといって後悔するつもりはない。いや、多少後悔はしているし、より有意義な時間の過ごし方はいくらでもあったと思うが、私はこの時間の過ごし方を選んだだけで、ほかのことはほかのときにやればいいと思う。夏にやらなくてもいいものはある。でも、夏にやらなければならないこともある。それはかき氷だし、花火だし、スイカ割りだ。幸運にも花火をすることはできたものの、そのほか2つのことは達成できなかった。正直に言って、かき氷の記憶といえば、昔家にあったかき氷機に冷凍庫で製氷された氷をパンパンに詰め、ジーンという音を鳴らしながら氷を削り、そこに市販のイチゴシロップを少しかける。お椀の底に残る、氷が溶けたあとのピンク色の水は美味しいとは言えないが、それでも飲み切る。スイカ割りも母がスイカを買ってきて、家のベランダで一回やったのをなぜか鮮明に記憶している。そのとき、スイカを割るのに使った棒はどこにあるのだろうか。

そんなふうに「夏の思い出」というものは、たとえオシャレなマンゴーがたっぷり乗っている天然氷を使ったかき氷をわざわざ山奥にまで行って食べるよりも、家でつくるかき氷のほうがよっぽど記憶に残るし、夏という感じがする。砂浜でのスイカ割り(これ自体やったことがあるのかも忘れた)よりベランダでやったほうがなぜか覚えている。私にとって、夏は家のなかで起きているものだった。

というものの、今年の夏は外に出ていた時間が長かったように感じるのはなぜか。もちろん長野や京都、東京にいたのはそうだが、あまり家で夏を感じなかったほうが大きい気がする。部屋はエアコンが常にといっていいほどかけっぱなしだったので、熱帯夜のむさ苦しい夜にタオルケット一枚で寝相悪く寝ていた自分があまり想像できなくなってきた。それはエアコンを常にかけないといけないほど、夏が暑くなってきたのはそうだし、暑い中テレビをつけて高校球児をみることもなくなった。なにより紙の貼ってある宣伝用のプラスチックのうちわが街からなくなったのはどうしてだろう。夏がなくなっていく。

でも、「古き良き夏」のようなものがあったとして、それを取り戻そうとはならない。年をとるごとに夏の感じ方が違ってくるだけなのだろうと。夏自体は変わっていないのだ。そうなぜか自分に言い聞かせる。自分が理想とする夏をかたちづくって、それに執着することはしたくない。来る夏は変わるし、変わっていてほしいとも思う。でも、それが気候変動のせいとかであれば、話は変わってくる。それ抜きに考えても、来年は違う夏が来てほしいとは思う。しかし、私の「古き良き夏」のイメージ–それはイチゴシロップのかき氷だし、ベランダのスイカ割りだ–を捨てることはないとも思う。

夏は私の一番好きな季節ではない。どちらかと言うと、より嫌いなほうだ。私は夏の終わり、つまり秋に心を膨らませる。しかし、それは夏の気だるさ、汗ばみ、疎外感がないと秋らしさが出てこない。秋が秋らしくいるためには夏が夏らしくしていないといけない。そんなわけで、夏を夏らしくするために、私は変わりゆく夏らしさを毎年ただ過ごすだけだ。夏はただそこにあっただけで、これからもありつづけるだけなのだから。