2022.8.18

渡米してもう2週間が経とうとしている。なにかがたりないと感じていたら、どうも2週間もお酒を飲んでいなかったということに気がついた。仕事終わりにスーパーに行き、ちょっと値段は張るが、美味しそうなブルーチーズとサラミ、そして赤ワインとIPAビールを8缶買った。家に帰り、ささっとジャーマンポテトをつくり、ビールで一杯やる。明日も仕事はあるが、関係ない。やっていければ、なんでもいい。そんなムードだった。しかし、ビール一缶で気持ちよく眠たくなり、少しだけ横になった。そしたら、急に将来のことに不安になった。そういえば、きのう軽く大学院について調べていたが、どこもあまりしっくりこなかった。まずもって、自分のやりたいこと(批評、表象文化論)を大学院で学ぶ必要があるのか、という問いにぶち当たった。そして、海外の大学院を調べるなかで、やはり私は日本語で書くことがしたいのかもしれないことを考えた。海外の大学院に行ったら、日本語で文章を書くことはほぼない。では、日本の大学院なのかといえばそうでもない気もする。

そんなことを迷っていたら、不安が募ってきた。不安という感情はどこから来るかわからないから、それがさらなる不安を呼び起こすのだ。そんな原因がわからない感情と対峙しつづけても意味がないけど、私はこうやっていつも向き合いつづけている。しかし、同時にこうした不安をとりあえずは人にぶつけてみてどうなるのか試している節もあったりする。大学に入りたての友人にとりあえず言ってみたり、同じような境遇にいる人に相談したり、他者ならどうにかしてくれるのではないか、という微かな希望を手綱にしている。当たり前だが、そうやって私は他者とともに生きている。それは他者の決断が自分の決断に–それも十分に–なりうることを示唆している。

私には、他者から影響を受けることを肯定しながら、それでも他者とは同じようなことをしたくないという欲望があるところがあって、それがごちゃ混ぜになって、他者から影響を受けることを肯定することじたいが、他者とは異なることをしている、と認識している。つまり、他者と同じことをしたくないから、他者から影響を受けようとしている、というねじれた、いやこじれた欲望を抱えている部分がある。それはそれで興味深い矛盾なのだが、これがけっこう先言った不安と結びついているのではないかとふんでいる。人とちがうことをしたいという欲望はいつも自分のやっていることの下地にあり、それは予想以上に私に影響をあたえている。批評というものも周りの人を見渡してもやっている人はなかなかいない。でも、批評をやりたいということは他者の欲望なのだとラカンは言っているからそうなのだろうが、そこでも一味変えたいと思うし、それは大学院選びにも直結している気がした。だが、反対に考えば、矛盾があるからこそ、その矛盾している二つの要素を自分の都合がいいように使いわけることもできる。たとえば、大学院に行くという選択は他者からの影響が大きいが、大学院で勉強することは他者とは違うというように。矛盾をただ矛盾と言って非難するのではなく、現実の問題の考え方に使っていく。そういう心構えもたまには必要な息抜きだろう。