2023.9.21

最近なにかと書き続けている。もちろんこの日記も書き続けているのだけれども、日記以外にも東京芸術祭のための記事を二本書いたり、大学院や奨学金のための書類だったり、書いている。そして、同じ文章と毎日向き合っては、書いては消して、それを繰り返している。だから、なにか積極的に新しい文字を生み出すというよりも、スクラップアンドビルドに近い。ゼロイチではなく、ゼロイチとイチゼロの反復である。それがイチになっていく弁証法的なプロセス。ただ、はたして弁証法的なのかというと厳密にはわからない。どちらかというと、ゼロニ、もしくはゼロサンをしてから、イチにしていくというほうがあっている。まずはとにかく文字数を書いて、それを削っていく。削る作業はコツをつかめば比較的簡単なので、まずは文字数を増やすことを目標にする。たとえば今書いている東京芸術祭のパンフレット記事は1500字maxなので、3000字弱書いてからいらない部分を削る。いらない部分は意外にもたくさんある。必要のない接続詞や飾り言葉、そして同じことが繰り返されている文は消して、一つの文にできるところはそうしていく。そのとき重要なのはバージョンを細かく残しておくこと。Google docsの編集履歴は優秀だけど、あれは記録が残るだけで、見やすさでいえば、自分でこまめに新しいバージョンをつくることで、前書いたことを再利用することができる。文章を書くときはなんでも早くできることが大切だと思っていて、そうじゃないと思いついたことをどんどん忘れてしまう。手がなるたけ思考に追いつけるような環境を整備すること。UlyssesをMacとiPhoneで同期したり、適宜に紙でメモをとったりすることで、手が止まることを防ぐ。

書くことは大変だ。書く労力はすべての人が経験しているにもかかわらず、正当に評価されない。つまり、誰しもがつまづいたことのある、小学生のころの夏休みの宿題で出される原稿用紙3枚の読書感想文にかかる時間と労力を知っていれば、原稿料をもっと払ってくれてもよいはずなのだ。いや反対に、誰しもが書くことができるからこそ、翻訳などの専門職とは違って、専門性がないものとして見られている節は必ずあると思う。専門性が高い仕事イコール給料が高いという等式は成り立つ前提がどれだけ脆いものかということを知りながら、いつまで医者と弁護士に高い給料を払うつもりなのか。