2024.4.23

ふくらはぎがまだ痛い。筋肉痛って一日で治らなかったっけ?どうせ雨なので、自転車に乗らない口実ができた。

指導教官に「クィア理論の授業とかないんですかね?」と聞いたところ、”You came to the wrong place”と言われた。ほんとうにそうなのかもしれない。クィア映画の授業のあと、教室にいた車いすに乗った高齢の女性と話していたけど、「クィア映画」の話になった。その人は『チョコレートドーナツ』という映画の後、感想を求められ、「セックスワーカー排除」と言っていて、それはぼくの口からは出てこなかった言葉だった。たしかに、その映画は白人のゲイカップルが薬物依存の母のダウン症の息子を引き取ろうとするが、ホモフォビアが蔓延る当時のアメリカで法律とその法を取り巻くホモフォビアに勝つことができず、けっきょくその息子は母の元に戻るが、育児放棄した母のもとを去った息子は死んで見つかる、というストーリーなのだが、薬物依存の母が一方的に「悪者」として描かれ、養子をもらおうとするゲイカップルを肯定的に描く。つまり、なぜ母が薬物依存に陥ったのか、という背景はまったく描かれない。もちろんこの映画じたい、ホモフォビアだけでなく、レイシズムや健常者主義といった複数のレイヤーを持つのだけど、たしかにドラァグクイーンであるルディの仕事仲間のことは描かれないし、薬物に依存する母もセックスワークに従事しているという描写がある。そのレイヤーが忘れ去られている。

わたしたちは、ある映画を観た後、それがよかった、悪かった、それがどう良く、どう悪かったかを議論する。(いわゆる星をつけるフィルマークス的態度) 一方、アカデミアや批評の世界では、表面的な善悪の彼岸を越え、その奥にある意味や意図を読み取ろうとする。映画に関しては商業的な面があるので、そこもきちんと読み取らないといけない。それは非常にエリート的な身振りである。どっちもどっちだと思うし、ぼくはどちらかというと後者をしてきた、それを「良い」と思ってしてきた人間だから、そこにも善悪の判断があるわけだ。アカデミアでそういうことを考えられるかはわからないけど、考えなければいけないと思うし、映画はそれを考える良いメディアだと思う。

23時過ぎに眠くなったので寝たら連続ではないけど12時間も寝てしまった。どうやら疲れていたようだ。